苗字で呼ばれない人々
もはや古代史でもなんでもないが、「ナポレオン」という名前がふと気になったことがある。あたりまえだが、彼のフルネームは「ナポレオン=ボナパルト」。特に世界史では、歴史上の人物は苗字で呼ばれるのが普通である。なぜナポレオンは苗字(ボナパルト)ではなく、ファーストネームで呼ばれるのか?
でもこれは、「ナポレオンは皇帝になったから」で、あっさりけりがつく問題だ。王や皇帝は、普通「エドワード」とか「シャルル」とか、ファーストネームで呼ばれるもんである。同じ家系の者が世襲してゆくから、ファミリーネームじゃ誰だかわからない。
むろんナポレオンは失脚したから、子や孫に世襲はできていない(のちに甥っ子が皇帝になり、「ナポレオン3世」を名乗ってはいるが)。ともあれ、いったん皇帝になった以上、やはり慣例に従って、ナポレオン呼びでいいのである。
図1 左:ナポレオン1世/右:同3世*1
でも中には、王や皇帝ではないけども、一般にファーストネームで呼ばれる人々がいる。たとえば、『神曲』を書いた詩人のダンテは、フルネームを「ダンテ=アリギエーリ」という。苗字はアリギエーリだが、こっちで呼ぶ人は見たことない。ほかには彫刻家の「ミケランジェロ=ブオナローティ」、画家の「ラファエロ=サンティ」、科学者の「ガリレオ=ガリレイ」が、やっぱりファーストネームで呼ばれている。
図2 名前で呼ばれる族*2
※左から、ダンテ(1265~1321年)/ミケランジェロ(1475~1564年)/ラファエロ(1483~1520年)/ガリレオ(1564~1642年)。
実はこのダンテ以下4名には、ある共通点がある。全員イタリアの偉人なのだ。
どうも中世後期~近世(特にルネサンス期)のイタリアの偉人に限っては、ファーストネームで呼ばれる傾向があるらしい。聞くところによればダ=ヴィンチも、本国では主に「レオナルド」で通っているようだ。
理由については次の2通りの説があって、どっちが正しいかよくわからない。
A. 特に偉大な人物については、敬意を表する意味で、ファーストネームで呼ぶ習慣がイタリアにはあった*3。
B. 当時のイタリアではたいていの人が、ファーストネームで名乗っていた。作品などにもファーストネームしか書かなかったから、苗字を知ってる人は少なかった。
ミケランジェロらがファーストネームだけサインしたことは事実のようだから*4、どちらかと言うと、Bが正解に近そうだ。なんにせよ、アリギエーリより「ダンテ」、ブオナローティより「ミケランジェロ」の方が、かっこいいことはたしかである。
ちなみに画家のレンブラントも、フルネームは「レンブラント=ファン=レイン」だそうで、「名前で呼ばれる族」の1人である。ルネサンス期より少し後、17世紀のオランダ人なのに、なぜまたファーストネームなのか? 同時代の有名な画家――フェルメールやルーベンスは普通に苗字なのだ。
これはどうも、レンブラントがある時期から自分の作品に、ファーストネームしかサインしなかったせいらしい。15~16世紀の巨匠たち(ミケランジェロやラファエロ)にならったものだと言われている*6。単に憧れでそうしたのか、それとも
「俺のライバルは、ルネサンス期の巨匠だし。同時代の奴らなんか目じゃねえし」
的な感じなのか? そのへんはやっぱりわからない。
*1:左:https://f1.blick.ch/img/incoming/origs2574603/3341297404-w2560-h1440/150612639.jpg/右:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0c/Alexandre_Cabanel_002.jpg
*2:左:https://www.bisceglie24.it/wp-content/uploads/2015/07/Dante_slider-1728x800_c.jpg/中左:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5e/Miguel_%C3%81ngel%2C_por_Daniele_da_Volterra_%28detalle%29.jpg/中右:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/Raffaello_Sanzio.jpg/1200px-Raffaello_Sanzio.jpg/右:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b0/Galileo-sustermans.jpg
*3:Mitch Stokes, Galileo, 2011, p. 5.
*4:Eric Jan Sluijter, Rembrandt and the Female Nude, 2007, p. 262 ; Robin Santos Doak, Galileo: Astronomer and Physicist, 2005, p. 11.
*5:https://i.ytimg.com/vi/POl-i3qLMVg/maxresdefault.jpg
*6:Ernst van de Wetering, A Corpus of Rembrandt Paintings VI, 2014, p. 66.
アーサーの呪い
その昔、『アーサー王の死』という本を読んだことがある。トマス=マロリーが15世紀に書いた本で、数ある「アーサー王伝説まとめ本」の中でも、集大成と言われてるらしい。
でもこの『アーサー王の死』というタイトルは、もうちょっとどうにかならなかったものか? これからアーサー王の生涯についての物語を読もうというときに、いきなり「死」とか言われたらテンションが下がる。
図1 歴代アニメのアーサーたち*1
※左から、『燃えろアーサー』(1979~80年)/『Fate』シリーズ(2006年~)/『七つの大罪』(2014年~)。1人性別違うが、気にしなくてよい。
それはともかく、そもそもアーサーとは何者か? さしあたり、次の3点だけ押さえとけば万全だと思う。
1. 伝説的なイギリスと言うか、ブリテン島の王。実在したとしたら、5世紀後半~6世紀前半あたりの人。実在したかどうかの議論には、まだ決着がついていない。
2. 西暦500年ごろ、ベイドン山の戦いでブリトン族(ケルト系)が勝ち、新興のアングロ=サクソン族(ゲルマン系)の勢力拡張に待ったをかけたことは事実らしい。このときブリトン族を率いてたのが、アーサーだったと言われている。
ちなみに『ブリトン人の歴史』(9世紀)によると、アーサーは「軍の指導者」で、王ではない。統治者と言うより、武人だったのかもしれない*2。
3. でもこの勝利は一時的なもので、その後のブリテン島はほぼ、ゲルマン系のアングロ=サクソンやノルマン族の天下になる。アーサーが実在したのなら、草葉の陰で嘆いているだろう。
さて。この『アーサー王の死』によれば、アーサーの墓には次のように書いてあるそうだ。
アーサーここに眠る。かつての、そして未来の王。*3
なんで「未来の王」なのかと言えば、アーサーはアヴァロン島(伝説の理想郷)その他で眠っており、いつの日か帰還するとも言われているからだ。この物語には、
「後から来てでかい顔してるアングロ=サクソンやらノルマンやらに、ぎゃふんと言わせてやりたい」
というケルト系イギリス人たちの願いがこめられてるのだろう。
でもこの話、ちょっと気になるところがある。
「イギリス王家に『アーサー』という名の男子がいて、これが王位についたらどうなるのか?」
ということだ。
「アーサーが、再びイギリスの王になる」という予言はそれで、一応果たされた形になる。が、伝説のアーサーその人を待ってる人々にとってはまがい物であり、怒りを買うことになりそうだ。
実際に調べてみたところ、歴代のイギリス王の中に、(伝説のアーサー王を別とすれば)アーサーをファーストネームとする者はいない*4。でも歴史上、少なくとも2度、「アーサー」がイギリス国王になりかけたことはあるのである。前置きが長くなったけど、実はここからが本題だ。
1人目のアーサーは、「アーサー=オブ=ブリタニー」(「アルテュール1世」とも。1187年3月29日~1203年)。正式に立太子されたことはないが、伯父であるリチャード1世の事実上の後継者と目されていた。リチャードの死後、ジョン王(叔父)と対立し、暗殺されたと言われている。享年は15か、16歳。
2人目は「アーサー=テューダー」(1486年9月20日~1502年4月2日)で、こっちは正式に王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)になっている。でも国王になることはなく、15歳で死んだ。別に殺されたとかじゃなく、風邪をこじらせて死んだらしい。
もちろん偶然ではあるが、イギリス国王になるはずだった2人の「アーサー」が2人とも、十代半ばで死んでるのは、因縁めいた話である。私はこれを、勝手に「アーサーの呪い」と呼んでいる。
*1:左:https://vmimg.vm-movie.jp/image/android/480x360/048/s048172001a.jpg/中:https://littlecloudcuriosity.files.wordpress.com/2015/06/fate-stay-night-unlimited-blade-works-episode-23-3.jpg/右:http://livedoor.4.blogimg.jp/anico_bin/imgs/3/6/36282c97-s.jpg
*2:ピーター=ジェイムズほか『古代文明の謎はどこまで解けたか(2)』太田出版 2004年 268ページ。
*3:T・マロリー『アーサー王の死』筑摩書房 1986年 438ページ。訳文はちょっと変えた。
*4:ミドルネームなら例があるようだ。参考:そもそもアーサーてどこのだれなんだよ : 散種的読書架
謎の「養布神社」
谷川健一『白鳥伝説』(集英社)234ページによれば、兵庫県養父郡養父村の「大上川養布神社」に、「降り鐘」というのが祀られてる。物部川から石をとり出して、このお宝を乗せとくと、必ず雨が降るのだという。降り鐘と言ってもお寺の鐘ではなく、弥生時代(だいたい1800年以上前)の銅鐸だというからものすごい。
その話に続き、こんな記述もある。
ここでは銅鐸と物部川との関係が見てとれるが、ふしぎなことに、それが土佐にも見られる。三木文雄氏はその著『銅鐸』の中で、高知県香美郡美良布神社では、神宝の銅鐸を物部川に泳がせる雨乞いの行事が今に伝えられていると述べている。
くどいようだが銅鐸は、弥生時代のお祭の道具だ。それが現在まで神社に伝えられ、儀式に使われてたのは驚くべきことだ。江戸時代に掘り出されたものだという説もあるが、案外弥生時代から、代々受け継がれてきたのかもしれない。
でも今回はこれを手がかりに、銅鐸の謎に迫ろうという話じゃない。本当に兵庫と高知とに、それぞれ銅鐸を伝える神社があるのか、どうなのか? という話だ。
図1 美良布神社の銅鐸*1
まず、高知県香美市の「大川上美良布(びらふ)神社」に銅鐸が2つあることは、これはもう間違いないところだ。「よさこいネット」(高知の観光情報サイト)には、しっかりと写真も載っている(図1)。
が、兵庫の養父(やぶ)神社に銅鐸があるという話は、どこをどう調べても出てこない。そんなものほんとにあるのか? と、改めて『白鳥伝説』を見ると、ネタ元は柳田国男『分類習俗語彙』という本だそうだ。で、この本の298ページには、たしかに同じことが書いてあった。
フリガネ 降り鐘。兵庫県養父郡養父村(現・養父町)の大上川養布神社の神宝の別名で、銅鐸だという。雨乞いにこれを持ち出し、物部川からとり出した膳ケ石の上に置けば、必ず降るという(民間伝承三ノ一)。
少なくとも、谷川健一氏が嘘を言ってないことはわかる(あたりまえ)。でもどの本を調べても、養父神社の名前に「大上川」なんて言葉はついていない。近くに物部川という川もないようだ。これはいったいどういうことなのか?
――などと言ってる暇があったら、さらにネタ元を当たればいいのである。柳田国男の本にある「民間伝承三ノ一」がそのネタ元だろう。でか目の図書館に行ってみると、『民間伝承』という雑誌の3巻1号があった。1937年刊だから、戦前の雑誌だ。その5ページに次の一節がある。
……又養布村では旱魃の時には縣社大上川養布神社の銅鐸を持ち出し物部川から取り上げた膳ケ石の上に置く。すると必ず降雨があるとされてゐる。そしてその銅鐸のことを降鐘と呼んでゐる。
柳田も嘘は書いてないのである(あたりまえ)。でも問題は、これが兵庫県養父市じゃなく、「土佐香美郡」の話とされていることだ。これはどう考えても、高知県香美市の大川上美良布神社のことを言ってるとしか思えない。でも「養布村」の「養布神社」だと、はっきり書いてあるじゃないか。これはいったいどういうことなのか?(2度目)
ここまでで、すでに気づいた人がいるかもしれない(なるべく少ないことを祈ろう)。「美良」と縦書きすれば、「養」の字によく似ているのだ……(図2)。
図2 「美良布」と「養布」
つまりどうも、真相はこういうことらしい。
1. 最初の記事を書いたのは、高知の郷土史家・橋詰延壽(「えんじゅ」と読むらしい)氏で、タイトルは「香美郡聞書」。この時点では、ちゃんと「美良布村」の「美良布神社」と書いてたはずである*2。
2. でも手書き、しかも縦書きの原稿だったので、これを活字に起こした人が、「美良」を「養」に見間違えた。こうして「養布村」の「養布神社」という、ありもしない神社が爆誕した。この時点では、まだ高知県の神社である。
3. 柳田国男がこれを読んで、兵庫県の有名な「養父神社」のことだと思い込んだ。で、「兵庫県養父郡養父村(現・養父町)の大上川養布神社」と書いてしまった(養布村という地名については、単に「養父村」の間違いと思ったのだろう)。
4. 柳田の本を谷川健一氏が読んで、高知の美良布神社とは別に、養父神社にも銅鐸があると思い込んだ。
橋詰氏が悪筆だったのか、植字者がうかつだったのか? あるいは、「香美郡聞書」というタイトルをスルーした柳田国男の責任がでかいとみるべきか。なんにせよ困ったものである。
というわけで、改めて結論しておくと、兵庫の養父神社に銅鐸はない。銅鐸を伝え、物部川での雨乞いに使う珍しい神社は、高知の美良布神社だけだ。
柳田国男・谷川健一という、民俗学界のレジェンドがそろって書いていることなので、今後も真に受ける人が出てこないとも限らない。広く警鐘を鳴らしたいが、こんなとこに書いてその効果を望めるのかが不安である。
*1:https://www.attaka.or.jp/kanko/dtl.php?ID=365
*2:「大川上」については、すでに「大上川」と書き間違えていたのかもしれない。
釣手土器の話 35 (終) - 文様は読める
釣手土器について、語りたいことは語り終えたので、今回でひとまず終わりである。最初から(途中からでも)最後まで目を通してくれた人がいるのかどうかわからないが、もしいたとしたら感謝に堪えない。
ちょいちょい脱線もしたが、このシリーズ(?)の眼目は、釣手土器の文様解読だ。デザインの系譜をさかのぼることで、文様の意味を明らかにしようという手をよく使った。特に図1~3の比較例は、われながらなかなかいいと思う。
図1 左:御所前出土/右:曽利出土(第4回より)
図2 左:御所前出土/右:穴場出土(第13回より)
図3 左:井荻三丁目出土/右:札沢出土(第23回より)
見ておわかりの通り、このやり方は特に難しくない。縄文文化の研究者諸氏には、大いに活用してもらいたい。ある程度の数の研究者がこの手を使いだせば、縄文の謎の多くが解けてゆくのではないかと、あらぬ期待をしているところもある。
ここで白状しておくと、この文様解読のやり方は、さほど目新しいわけでもない。「デザインをさかのぼると、もともとの意味がわかってくる」というのは、ときと場合によっては考古学で、普通に使われてきたものだ。たとえば有名な「遮光器土偶」(図4)をとり上げてみよう。
図4 亀ヶ岡出土*1
図5 遮光器*2
遮光器土偶の「遮光器」とは、いわゆる雪メガネのことである。雪原の反射光で目を傷めないように、シベリアなどでは昔から、板や革製の雪メガネ(図5)が使われてきた。1891年、人類学者の坪井正五郎が、
「この土偶の異様にでかい目は、遮光器を表してるんじゃね?」
という仮説を立てたので、遮光器土偶という名になったのだ。実際、土偶の目と遮光器はぱっと見、よく似ている。
でもこの仮説、いまではほぼ否定されている*3。実はこの手の土偶の目は、古いタイプではずっと小さくて、全然遮光器に似ていない(図6)。デフォルメが進んで目ばかり強調された結果、たまたま遮光器に似たというのがほんとのとこらしい*4。
この顛末は考古学で、一つの教訓として語られる。
「いま目の前にあるデザインだけを見て、『ああでもない、こうでもない』とやったら、間違える。デザインのルーツをさかのぼり、古い型式を押さえておくことが大切だ」
――というのは、大学などで考古学の講座に入ったら、割と最初の方で学ぶことである。
「釣手土器の話」(ひいては、「吊手土器の象徴性」という論文*6)で使ってきた文様解読は、この考え方を応用したものだ。特に異端的というわけでもなく(理屈が通ってれば、別に異端でもいいのではあるが)、むしろ正統派と言ってもいいくらいだと、胸など張っておくことにしたい。
さて。ここからなかなかの余談だが、遮光器の話が出たついでに、「トラロック」という神についても触れておこう。
遮光器土偶は実際には、雪メガネをかけてはいなかった。でも世の中には本当に、メガネ(と言うか、ゴーグル)を着けた神像の例がないでもない。古代中米の雨の神・トラロックがそれだ。この神は、なぜかたいていゴーグルを身に着けた姿で表される(図7)。
図7 トラロック*7
一見、「仮装大会でスベって凹んでるメガネの少年」に見えなくもないが、多分トラロックの像だろう。ちなみに、マヤの古代都市・コパンの初代王である「キニチ=ヤシュ=クック=モ」という人物も、やはりゴーグルを着けている(図8)。これもどうやら、トラロックに扮しているらしい。
図8 ヤシュ=クック=モ*8
雪が降るわけでもなかろうに、何のためのゴーグルだったのか? なんにせよ、中米以外ではちょっと見られない独特の造形センスが楽しい。
*1:http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_64.jpg
*2:http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details/collection_image_gallery.aspx?assetId=566376001&objectId=543097&partId=1
*4:金子昭彦『遮光器土偶と縄文社会』同成社 2001年 4~5ページ参照。
*5:http://www.thm.pref.miyagi.jp/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=181&data_id=51282
*7:http://www.mexicolore.co.uk/images-5/503_00_2.jpg
*8:http://www.ancient-origins.net/sites/default/files/Yax-Kuk-Mo.jpg
「比較民俗学会」の大会に出てきた
論文を載せてくれる(数少ない)学会――比較民俗学会の大会(11月4~5日)に参加し、発表もしてきた。
http://norinagakinenkan.com/whats/hikaku2017.html
特にとちりもせずしゃべれたのはいいが、発表の後会場が、「きょと~ん」な空気になったのはなぜだ。
発表後の昼食ではなぜか、
「『相棒』の杉下右京はなんのために、高所から紅茶を注ぐのか?」
が話題になる。ティーポットに湯を注ぐ段階なら、「茶葉をジャンピングさせるため」だろうが、カップに注ぐときにやる意味は、言われてみればよくわからない。
後で調べたら、「適温に冷ますため」説が有力視されているらしい。紅茶は沸騰したお湯で淹れるから、少し冷ました方がいいそうだ。
釣手土器の話 34 - 2つの「ホト」の釣手土器
第32回で、「3面(裏が双面)の釣手土器」(図1)と富士の噴火には、関係があるんじゃないか、的なことを書いた。火口も女性器も、古い言葉では「ホト」という。火口=性器なら、複数の火口から火を噴く富士は、女神が増殖したように見えたかもしれないという解釈だ。
図1 左:穴場出土/中:東吹上出土/右:岡田出土*1
では実際、複数のホト(性器)をもつ釣手土器はあるのかと言えば、これがまた、しっかりと発見されている。以前何度かとり上げた、北原遺跡の釣手土器(図2)だ。
図2 北原出土*2
第23回でもちらっと書いた通り、このデザインは、井荻三丁目遺跡や札沢遺跡の釣手土器(図3)の流れをくんでいる。つまり「3角形に円」のパターンだが、北原釣手土器の場合、このパターンが左右に2つ並んでるところに特徴がある。
図3 左:井荻三丁目出土/右:札沢出土*3
「3角形に円」(その真ん中の丸窓)が、女性器の表現だという話はすでに書いた(第23回)。普通3面釣手土器は、顔が左右に並んでいるのだが(第14回)、北原例はその性器バージョンということになる。この中にもし火をともせば、2つの「ホト」から火を噴いてるように見えるだろう。
ほんの思いつきのような仮説だが、こうなると、ちょっと捨てがたい気もしてくる。見慣れたはずの富士山に、2つ(またはそれ以上)の火口が現れたのを見て、縄文人はびっくりしただろう。で、こんな解釈をする人もいたのではないか?
「実は富士山の女神さまは、死ぬと2人(複数)になるのだよ。わしは前から知っておった(大嘘)。」
この場合、「死ぬと(子供を産むなり、なんなりして)増殖する女神」という観念が、のちのイザナミ神話に受け継がれてないのも一応、説明がつく。あくまでも、縄文中期の富士の姿から生まれたものなので、これを実際見ていない人々にとっては意味不明だ。富士の噴火を目撃した縄文人の間でだけ、地域限定(時代も限定)で流行したのだろう。
3面釣手土器の解釈としてはいまのところ、これくらいしか手持ちがない。もっといい仮説を思いつくか、人に教えてもらえるまで、「複数火口に触発された説」をひとまず採用しておきたい。
釣手土器の話 33 - ヘビと火山
図1 井荻三丁目出土*1
前回、井荻三丁目遺跡の釣手土器(図1)について、「噴火する火山そのものに」見えるとした。ところでこの井荻釣手土器には、ヘビの頭が4つついている。これは多分、死の象徴としてのヘビだろうが(第20回)、火山活動(溶岩流など)をヘビとして表現した例もないではない。余談だが、ここでいくつか紹介しておこう。
ヘビと火山と言えば、まずはギリシア神話の怪物・テュポンが挙げられる*2。テュポンは首から上に、100匹のヘビの頭が生えてる蛇神だった。ゼウスに敗けた後、エトナ火山*3の下敷きにされているそうだ。エトナ山が火を噴くのはそのせいだというから、テュポンは火山の神格化(むしろ、怪物化?)でもあるのだろう。「火のついた岩を投げつつ」攻め寄せたというのも、火山弾のこととみて間違いなさそうだ。
また、イランの神話には、「アジ=ダハーカ」という3ツ首の竜(またはヘビ)が登場する。英雄・スラエータオナに敗れたダハーカは、ダマーヴァンド山に幽閉されたという*4。ダマーヴァンドは活火山であり、ダハーカも、火山を象徴する蛇神だろう。
ちなみにダハーカは歴史伝説では、「ザッハーク」という暴君として登場する。アニメ観ただけであまりくわしくはないが、田中芳樹の小説『アルスラーン戦記』でも、「デマヴァント山に封印された蛇王・ザッハーク」が、いろいろ鍵になっているらしい。
ここまでは海外の事例だが、日本にも、特に溶岩をヘビにたとえた記録がある。
まず『日本三代実録』(901年)では、871年の鳥海山*5の噴火が次のように描写されている。
2匹の大蛇があり、長さは10丈ばかり*6。ともに流れ出て海に入る。数知れぬ小蛇もこれに従った*7。
(貞観13年5月16日)
また『長門本平家物語』(巻4)にも、霧島山*8の噴火(10世紀?)について、以下のような記述がある。
周囲が1、2丈、長さ10丈あまりの大蛇が、枯れ木のような角を生やし、目を日月のように輝かせて、大変怒っている様子で現れた*9。
どちらの大蛇も、普通に溶岩のことだろう。
なお、物理学者の寺田寅彦はヤマタノヲロチについても、
「火山からふき出す溶岩流の光景を連想させる」
と唱えている*10。ヲロチがいたという鳥髪山(船通山)は火山ではないから、あまり有力とは言えないが、ちょっと捨てがたい説ではある*11。
*1:江坂輝彌ほか編『古代史発掘(3)土偶芸術と信仰』講談社 1974年より。
*2:テュポンについては、アポロドーロス『ギリシア神話』岩波書店 1953年 39~40ページと、ヒュギーヌス『ギリシャ神話集』講談社 2005年 216ページ。ヘシオドス『神統記』岩波書店 1984年 103ページも参照した。
*4:ジョン=R=ヒネルズ『ペルシア神話』青土社 1993年 83~84ページ。
*6:1丈は約3メートル。
*7:原文は、
「有両大蛇。長十許丈。相流出入於海口。小蛇随者不知其数。」
*8:鹿児島県と宮崎県にまたがる火山群。
*9:原文は、
「廻り一二丈そのたけ十餘丈ばかりある大蛇の、角はかれ木の如くおほひかゝり、眼は日月の如くかがやきて、大にいかる様にて出來給ふ。」
(『平家物語 長門本』国書刊行会 1906年 132ページ。)