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釣手土器の話 29 - 「型式編年」の話もしておこう

 いまさらだが、「釣手土器の話」のそもそもの趣旨は、昔書いた論文「吊手土器の象徴性(上)(下)」(「はじめに」からダウンロードできる)を解説してみよう、というところにある。なるべくわかりやすくと言うか、ゆる目の内容にしたいので、説明がややこしくなりそうな話題は避けてきた。避けた話題の一つが、「型式編年」だ。ややこしいとは言うものの、結構大事なところなので、ここで少しだけ触れておこう。

 型式編年とは、考古学で昔から使われてきたやり方だ。たとえば、タイプの違う2つの土器があったとする。そんなとき、「どっちが古くて、どっちが新しいか?」を決める目安の一つが、型式編年だ。簡単に言えば、
「古いデザインの使われてる方が、多分より古い時代につくられたんだろう」
 と推測するわけだ。f:id:calbalacrab:20170827224703j:plain
図1 左:山下出土/右:道尻手出土*1

 例として、新潟県に多い「馬高式」と呼ばれる縄文土器(図1)をとり上げてみよう。これはもともとは、図1左のように、割ともっさりした土器だったらしい。でもだんだん、全体が縦に長くなり、胴体の「くびれ」がはっきりして、シュッとした感じの土器(図1右。通称「火焔土器」*2)になっていった。

 このように、デザインというのはある一定の方向に走りだすと、当面同じベクトルで変化してゆくことが多い。この方向性を押さえとけば、初めて見た土器でもそのデザインから、「こっちの方が古そうだ」などと、判断できるようになるのである。

f:id:calbalacrab:20170827211022j:plain図2 拳銃*3

 たとえばの話、図2の2挺の拳銃を見くらべてみていただきたい。銃とか全然くわしくない人でも、下の方が古いよね、くらいは嫌でもわかるだろう。デザインで新旧を判別することは、ふだんから誰もがやっている。考古学の型式編年は、これを細かくしたものだと思えばいい。

「そんなもん、いまならもっと科学的な方法で時代がわかるんじゃないの?」
 と思われるかもしれないが、そうもいかないことが多い。科学的な時代のものさしとして、一番よく使われるのは、「放射性炭素(C14)年代測定法」だ。でもこれは、さほど厳密な数値が出るわけではない。だいたい200年くらいを切りとって、「多分この中の、どこかの時点には入るだろう」と言えるだけだ。当然、数十年くらいしか時代が変わらなさそうな遺物同士ではさっぱり使えない。こういう場合は、やはり型式編年くらいしか、使えそうな目安がないのである。

 さてこの「釣手土器の話」では、
「抽象的なデザインでも、そのルーツに当たる(より具体的な)デザインと比較すれば、意味がわかってくる場合がある」
 というやり方をよく使った(第1回参照)。このとき、ブログには書かなかったけど、土器の新旧を測る目安として、型式編年もちゃんと参考にはしていたのだ。

  たとえば、穴場釣手土器のデザインのルーツは、御所前顔面把手付土器にあると、このブログでは推定した(第13回)。で、その御所前土器のデザインは、曽利人体装飾付土器の流れをくんでるのだろうとみたわけだ(第9回)。つまり少なくともデザイン上は、曽利土器→御所前土器→穴場釣手土器という並びになってもらわないと都合がよろしくない(図3)。

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図3 左:曽利出土/中:御所前出土/右:穴場出土*4

 で、それぞれの土器の型式はどうか? 報告書などを見る限り、曽利土器は「藤内I式」、御所前土器は「井戸尻I式」*5、穴場釣手は「井戸尻III式」に分類されている*6

 このころの型式編年と言えば、長野や山梨なら、その並びはだいたい、以下のようなものだ。

藤内I式→同II式→井戸尻I(II)式→同III式→曽利I~V式*7

 つまり、やっぱり曽利土器のデザイン(藤内I式)が古く、穴場釣手(井戸尻III式)は新しいわけで、図3の並び順ときれいに合っている。

 これは一例だが、同じことはいままでとり上げてきた、ほとんどの土器について言える(中にはどこに分類するか、意見が分かれる土器もあるが)。このブログも実は、似たような模様を思いつきで並べて、適当なことを言っていたわけではないのである。逆に言えば、「土器の型式編年」という昔ながらのやり方は、結構当てになるものなのだ。

*1:左:http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/11gatukara/sinanogawa/sinano/toukamati/jiyoumonnnobi/3/seiritu.html/右:http://www.kyuhaku.jp/exhibition/images/topic/98/p01-l.jpg

*2:火焔土器という名前は、単に見た目の印象でつけられたものだ。実際は、炎を表してるわけではないらしい。

*3:上:http://eurokulture.missouri.edu/wp-content/uploads/2014/03/790px-Walther_P99_9x19mm.jpg/下:https://www.britannica.com/media/full/210317/147489

*4:左:『井戸尻 第6集』富士見町教育委員会 1988年より。/中:森浩一『図説日本の古代(2)木と土と石の文化』中央公論社 1989年より。/右:諏訪市博物館の絵はがきより。

*5:報告書では「井戸尻II式」だが、これは井戸尻I式と同じ。

*6:それぞれ、『曽利』長野県富士見町教育委員会 1978年 65ページ、『津金御所前遺跡』須玉町教育委員会 1987年 11ページ、『穴場ANABA(1)』諏訪市教育委員会 1983年 7・22~24・39ページ参照。

*7:「井戸尻II式」は現在は、井戸尻I式に組み込まれている。