神話とか、古代史とか。

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徳川家康、出生の奇説 1 - 「ササラ者」とは何か?

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図1 カムイ伝*1

 昔、白土三平の漫画『カムイ伝』に、「家康は簓者(ささらもの)の出身だ」という話が出てきた。ササラ者とは、ササラという楽器で伴奏しつつ、教訓めいた物語(説経節*2)を聞かせる芸能民のことだ。「説経節」というくらいだから、もともとは仏教的な教訓話であり、ササラ者は民間の宗教者でもあった。中世以来、「ササラ乞食」などと呼ばれて差別され、一種の賤民(被差別民)とみなされてたらしい。

f:id:calbalacrab:20200728145845j:plain図2 ササラ者*3
 左上で踊ってる人がササラ者。

f:id:calbalacrab:20200728150527j:plain図3 ハーメルンの笛吹き*4

 「ハーメルンの笛吹き男」*5とかもそうだけど、都市や農村に定住する人はどういうわけか、旅の芸人を怖がったり、見下したりとかするのである。ガキのころ人をからかうときに、「ばーか、ばーか、チンドン屋」などと言っていたものだが、ここでチンドン屋大道芸人の一種)が出てくるあたりにも、この手の差別感の根深さがみえるという気がする。いまだって、芸能的なことをやってる人々に対し、
「TVに出てるなら『上』だけど、出てないようなら自分たちよりず~っと『下』
 くらいの感覚でいる人は、案外多いのではなかろうか?

f:id:calbalacrab:20200728151252j:plain図4 茶筅*6

 ちなみにササラとは、もともとは楽器ではなくて、「茶筅(ちゃせん)」という茶器の一種である*7。茶道をする人が、お茶をさらさらかき混ぜる場面に必ず出てくる例のアレだ。もっと身近なところでは、食器洗いのブラシとしても似たような道具が使われて、やはり「ササラ」と呼ばれていた。

 ササラ者たちはこのササラを、楽器代わりに使っていたらしい。「ササラ子」という棒でササラをこすると、風に揺れる稲穂のような、さらさらいう音が出るそうだ。ここからどういうプロセスを経たのかはよく知らないが、のちには図5(右)のような、がっつりした楽器(「びんざさら」という)に発展した。

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図5 ササラ(楽器の方)*8

 要するに『カムイ伝』では、
徳川家康は武士階級の出身ではなくて、被差別民だった」
 と、設定されていたわけだ。これはどうも、村岡素一郎*9という人が1902年、『史疑 徳川家康事蹟』*10で発表した説が元ネタになっているらしい。
「身分制社会の頂点に君臨した人が、実は最底辺の生まれだったとしたらどうか?」
 という発想の奇抜さが、クリエイター心を刺激するのだろう。『カムイ伝』に限らず、この仮説は、何度かフィクションのネタにされてきた。その1つ、南條範夫『三百年のベール 異伝徳川家康』(学研M文庫)という小説を最近読んだので、これについてちょっと語りたい。 

f:id:calbalacrab:20200728154909p:plain図6 『三百年のベール』*11
 家康の顔の悪さがなんとも素晴らしい。

 ちなみにこの小説、主人公は家康ではないし、舞台も戦国や江戸ではない。村岡素一郎氏をモデルにした人物(岡素一郎)が、ふとしかきっかけから家康の出生に興味をもち、新説を発表するまでの物語だ。下手にエピソードを盛ろうとせず、簡潔かつ論理的な展開で、とても面白い。

 ところで南條氏は作中で、
「必ずしも、素一郎の所論に全面的に賛成した訳ではない」
 と書いている(271ページ)。実際、小説の出来ばえとは別に、主人公の主張に納得いくかと言えば、これは正直微妙である。というわけで、ここから何回かに分けて、村岡説についていろいろと、考えてみることにしよう。