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徳川家康、出生の奇説 2 - 謎の「源応尼」

 徳川家康について、「被差別民(ササラ者、または願人坊主)の出身だ」という説があることは前回で書いた。これを唱えたのは、村岡素一郎(1850~1932年)という静岡県庁の役人さんである。村岡氏は1902年、『史疑 徳川家康事蹟』という本*1で、この仮説をどーんと発表した。

 家康がそういう人だったとして、ではなぜ三河(愛知県の東半分)を支配する戦国大名になれたのか? 村岡説では、本物の松平元康(家康の若いころの名前)と入れ替わったから、ということになっている。つまり村岡説は、歴史小説や時代劇でときどきネタになる、「徳川家康替え玉説」の元祖でもあったりするのである。

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図1 「替え玉説」の例*2

 後世にいろいろと影響を与えた村岡説だけど、実際読んでみると、「それはさすがに無理だろー」としか言いようのないところも少なくない。たとえば、家康の数ある肖像画の中に、やけに人相の悪いのがあるところから、「貴人の相ではない」とか言ってるが(『史疑』8ページ)、そんなもん証拠になるわけない。「生まれのいやしさが顔に出ている」なんて、ごりごりの差別思想だし、学説としてどうとか言う以前の問題だ。

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図2 駿府城*3

 また、
「家康は晩年、駿河駿府城に住んでいた。人質として過ごした駿河の地に、愛着をもつのは不自然だ。生まれ故郷だからこそ、駿河にこだわっていたのだろう」
 とも言ってるけど(『史疑』18~21ページ)、話が逆だろう。家康に隠したい過去があるのなら、生まれ育ったところには、なるべく近寄りたくないはずだ。

 村岡氏が挙げた根拠の中で、いまでも比較的使えそうなのは、次の8点くらいだろう*4

根拠①
 家康は6歳から17歳くらいまで(満年齢)、駿河の今川家で人質になってた。そのころ、家康(幼名は竹千代)の祖母である「源応尼(げんおうに*5)」がちょうど駿河にいたから、家康の世話をまかされたと言われているそうだ(『史疑』32ページ)。でもなぜ家康の祖母が、そのとき都合よく駿河にいたのか、はっきりしていない。 

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図3 源応尼(家康の祖母)*6

根拠②
 またこの源応尼という人が、どうにも得体の知れないところがある。まずその素性からして、
「青木加賀守弌宗の娘」
尾張の宮の善七の娘」
「大河内左衛門佐元綱の養女(または実娘)」
「大河内但馬守満成の娘」
 と、少なくとも4つの説があり、どれが本当かいまだにわからない*7

根拠③
 
源応尼は、家康の母方の祖母である。家康の母(於大の方)の父親は水野忠政だから、源応尼はその忠政の嫁だったということになる。でも忠政以外にも、次の4人の男と結婚し、そのすべてに先立たれたと言われているのである。
2人目: 松平清康岡崎城主)
3人目: 星野秋国(三河の豪族)
4人目: 菅沼定望(〃)
5人目: 川口盛祐(〃)*8
 いくらなんでも、不自然すぎないか。少なくともその一部、もしかしたら全部がつくり話と思うのが普通ではないか?

 ここでちょっと解説しておくと、つくり話をするとき、もっともらしい話を1つつくるより、適当な話をいっぱいつくる方が、見抜かれにくくなる場合がある。何人もの大名や豪族たちの記録をいちいちチェックして、全部嘘だと証明することは、歴史の専門家だって難しい。

根拠④
 源応尼はそのころ、「少将井宮前町」(現・静岡市葵区鷹匠町付近)にいて、家康(竹千代)もここで育ったと言われている。でもここ、当時はさびれた下町で、「ササラ者」(前回参照)の集落があったらしい(『史疑』37~43ページ)。なぜここに源応尼が住んでたのか? また、今川家としても、松平家から来た人質を、わざわざ下町に置くこたないだろう。当時の家康少年は、別に人質でもなんでもなくて、普通に祖母と暮らしてただけなんじゃないか?

f:id:calbalacrab:20200730103854j:plain図4 源応尼の墓*9

根拠⑤
 ついでに言えば源応尼は、1560年5月30日に死んだという*10。ところで桶狭間の戦いは、13日後の6月12日。ここで今川義元が死んだから、家康(当時は松平元康)は人質生活を終え、晴れて三河へ戻ることになる。家康の少年時代を最もよく知ってた人物(源応尼)は、狙いすましたように、その直前に死んだということだ。

f:id:calbalacrab:20200730104534j:plain図5 松平親氏*11

根拠⑥
 家康個人とは直接関係ないが、徳川家の遠い祖先(と、される人々)の中にも、ちょっと不思議な人物がいた。松平家(のちの徳川家)の始祖と言われてる「松平親氏(ちかうじ)」という人がそれだ。関東の豪族・新田源氏の子孫ということになってるが、本人は流浪の坊さんで、「徳阿弥」と名乗っていたという*12
 ちなみに徳川家の系譜は、家康が幕府を開くとき、後づけでつくったものらしい。てことは、親氏が祖先というのも、大方つくり話だろう。どうせ嘘なのに、わざわざ流しの坊さんをチョイスするのも妙ではある。 なお、親氏の没年についても、1361年から1467年まで、10通りもの記録があって、どれが正しいやらわからない*13

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図6 『駿府政事録』(問題のページ)*14

根拠⑦
 『駿府政事録』という本の慶長17年(1612)8月19日の項に、おかしな記事がある。家康が家臣たちとの雑談の中で、
「昔、又右衛門って男が、500貫*15で俺を売っちゃってね? 9歳から18、9歳のころまで、駿河にいたもんよ」
 的なことを言っているのである。公式の伝記でも、家康は人質時代に売られたことがあるようだが、買ったのは尾張織田家である*16駿河(今川家)に売られたという記録はなく、なんのことか謎とされている。 

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図7 松平信康(家康の長男)*17

根拠⑧
 家康は36歳のころ、妻(築山殿)を殺し、長男(松平信康)を切腹させている。大河ドラマとかでは、「信長の命令で仕方なく……」とされてる場面だが、家康やその家臣団が、2人を擁護した形跡はない。そのため特に近年では、家康自身がこの2人と不仲だったという説も、かなり有力視されている*18。信康は、実は家康の子ではなく、だから嫌われていたのではないか?

 ちなみに④の、
「人質時代に家康がいた場所には、ササラ者の集落があった」
 という話は、村岡素一郎氏の調査による。私(川谷)が確認したわけではないことをお断りしておきたい。

 根拠はこんなところだが、そこから村岡氏が推定した家康の前半生は、かなりぶっ飛んだものだった。そこそこ長い話だし、それについては今度書こう。

*1:史疑 : 徳川家康事跡 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:https://www.bs-tvtokyo.co.jp/txcms/media/OFFICIAL/91/9b/56ca55d3092c976e7d03de616270.jpg

*3:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9e/Sunpu-castle_tatsumi-yagura.JPG/1200px-Sunpu-castle_tatsumi-yagura.JPG

*4:以下、村岡説そのままではなくて、やや手直しした部分もある。

*5:「げんのうに」と読むのかもしれない。

*6:https://i1.wp.com/taigaiine.com/wp-content/uploads/2020/05/33d6e5b32b1bac7a54838f7e9df601ce.jpg?fit=600%2C667&ssl=1

*7:源応尼(げんおうに) 華陽院(けよういん) 徳川家康の祖母 -武将辞典

*8:源応尼(げんおうに) 華陽院(けよういん) 徳川家康の祖母 -武将辞典

*9:https://rekisi--ad.up.seesaa.net/image/E88FAFE999BDE999A2E6BA90E5BF9CE5B0BCE381AEE5A293.jpg

*10:華陽院 - Wikipedia

*11:http://tozenzi.cside.com/matudairagoh-9a1.jpg

*12:坊さんというのは後世のつくり話とも言われるが、流浪の身ではあったらしい。参考: 松平親氏 - Wikipedia

*13:松平親氏 - Wikipedia

*14:https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03153/i04_03153_c004/i04_03153_c004_0002/i04_03153_c004_0002.pdf

*15:村岡氏は「五貫」としているが、調べた限りでは、どの写本も「五百貫」とする。参考: 徳川家康の影武者説 - Wikipedia

*16:そもそも織田家に売られた話は、嘘とする説も有力だ。参考: 徳川家康の影武者説 - Wikipedia

*17:https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2015/10/695a166b4ecfb019208fc370cdb59bae.jpg

*18:松平信康 - Wikipedia