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徳川家康、出生の奇説 3 - ニセ元康の狂詩曲

 村岡素一郎『史疑 徳川家康事蹟』*1(1902年)によれば、徳川家康は若いころ、三河の大名・松平元康と入れ替わることで、戦国武将としてデビューした。村岡説だと、その人生はなかなか入り組んだものだけど、ざっくりと要約しておこう。

① 家康誕生
 戦国時代、駿河の「少将宮前町」(現・静岡市葵区鷹匠町付近)に、「源応尼」というササラ者(被差別民の一種。第1回参照)がいた。その娘が、流れ者と深い仲になり、男の子を産んだ。この子がのちの徳川家康である。
 家康の父は、「江田松本坊」という流浪の坊さんだった。彼はとっとと駿河を去り、その後の行方は杳(よう)として知れない。

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図1 少将宮(現在は小梳神社)*2
 家康ゆかりの神社として知られる。

 ちなみにこの江田松本坊という名前は、どこから出てきたのかわからない。村岡氏が独自に集めた伝説じゃないかと思うけど、どこで聞いたか不明なのだ。このあたりは村岡説の中でも、特に怪しげなところである。

② 家康少年、売られる
 家康は、主に祖母(源応尼)の手で育てられた。また、知源院という寺の智短上人に弟子入りし、読み書きを習った。でもいたずらが過ぎて破門され、家出してぶらぶらしているところを、又右衛門という人買いに捕まってしまう(当時7歳くらい)。
 その後家康は、「酒井常光坊」なる人物に5貫で売られた*3。常光坊は「願人坊主」であり、家康も、その修行をすることになった。願人坊主は一応僧侶だが、どっちかと言うと大道芸人に近い*4

f:id:calbalacrab:20200801115031j:plain図2 家康の遺品?*5

 酒井常光坊というのも、村岡説以外では聞いたことがない名前である。酒井家に、家康の遺品と称する編み笠と三猿が伝わってたそうで(『史疑』63~64ページ)*6、そこから話をふくらませたらしい。三猿、つまり「見ざる・聞かざる・言わざる」がここで出てくるのも、ちょっと意味ありげな感じはする。

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図3 知源院(現在は「華陽院」)*7

 一方、智短(「知短」とも)上人に読み書きを習ったという話は、実際にある*8。歴史的な文献に出てくるわけじゃなく、あくまで伝説だが、事実だとしたら妙ではある。家康が大名の息子なら、松平家から教育係くらい、ついて来たのではなかろうか?
 ちなみに、人買いが子供を売る値段は、2、30銭が相場だそうで*9、5貫(または500貫)はいかにも高すぎる。家康も、この時点では「ただのガキ」であり、そんな値がつくとは思えない。

松平信康誘拐事件
 願人坊主として流浪するうちに、家康は、各地の情勢にくわしくなる。この当時、三河の大名・松平元康の子である「竹千代」*10(のちの松平信康)が、人質として駿河にいた。これに目をつけた家康(17歳くらい)は、悪友たちと手を組んで、幼い竹千代を誘拐した。松平家を「元康派」と「竹千代派」の2つに分裂させ、あわよくば、これを乗っとろうと思っていたらしい。

 1560年のことだそうだから、竹千代(信康)は、満1歳になったところである。誘拐された方も災難だが、誘拐した方も、1歳児の面倒をみるのは大変だったんじゃなかろうか。ちなみにあたりまえだが、「信康が何者かにさらわれた」なんて記録は、どこにもない。

④ 影武者・松平元康
 でもこの(どうみても無謀な)作戦は普通に失敗し、家康は、さくっと元康に降伏した。ところがその矢先、元康が暗殺されてしまう。
「この大変なときに、城主不在ってわけにもなー」
 ということで、影武者に抜擢されたのが家康だ。以後、このニセ松平元康が、三河の大名(仮)として活躍するということになる。

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図4 岡崎城*11

 ここも相当無理のあるところだ。若君誘拐の犯人がのこのこ現れれば、首が飛ぶくらいはあたりまえ。追っぱらわれるだけですめば、御の字というところだろう。それを城内に入れてしまうとは、みんな家康に甘すぎる。おまけに臨時とは言え、城主代行に成り上がったんだから、誘拐もしてみるものである。

⑤ 信康が邪魔になったので
 その後十数年、意外と有能だったニセ元康は、三河の家臣団からなんとなく、「殿」として認められるようになる。臨時代行の予定だったけど、「もう、こいつでよくね?」という雰囲気になってきたわけだ。でもこうなると、元康(本物の方)の息子である松平信康が邪魔で仕方ない。本来は、
「竹千代君(信康)が成人したら、家督はすぐお返ししますから~」
 という約束だったけど、ニセ元康は当然、返したくない。そこで信康の母(築山殿)を殺し、本人には切腹を命じて始末した。

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図5 信康の廟*12

 この「松平信康切腹事件」の説明がうまくつくとこが、村岡説の(多分一番の)長所である。でも、家臣たちの中に1人くらい、信康の立場に同情して、
「なんだあんな奴、もともとただの影武者じゃん
 などと、書き残すのがいそうなもんだけど。

松平親氏に目をつけた理由
 ニセ元康改め家康は、1603年、江戸幕府を開いた。幕府を開くには、征夷大将軍にならなきゃいけないし、征夷大将軍になるには、源氏の血筋でなきゃいけない。というわけで家康は、松平家を「新田源氏の子孫」ということにした。このとき、松平親氏前回参照)を始祖にすえたのは、彼が流浪の坊さんだったからだ。実の父親(江田松本坊)も流浪の僧だったから、家康は、似たような境遇の親氏に注目したのである。

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図6 親氏の墓(中央)*13

 どうも現在は、親氏が流浪の僧だったという伝説は、家康の時代にはなかったとされているようだ*14。これが事実なら、この部分は成り立たないということになる。

⑦ 昔の仲間にも容赦なし
 ある種の芸能民や手工業者への差別は、昔からあった。でもそれが、「穢多(えた)・非人」としてがっつりと制度化されたのは、江戸時代だ。なぜこんな政策をとったのかと言えば、自分の過去(ササラ者、または願人坊主の出身)を隠したい家康にとって、被差別民が目障りに思えたからだろう。

 これもあまり、説得力があるとは思えない。たとえば家康が、逆に差別を解消する政策をとってたら、どうか? その場合も、
「自分が昔差別されたから、熱心にとり組んだのだ」
 と主張できるだろう。要するにこれは後づけで、どうとでも言える話である。

 ――さて。ここまでみてきた通り、村岡素一郎氏が『史疑』で唱えた説は、あまり筋のいいもんじゃない。なんと言ってもまずいのは、「竹千代(信康)誘拐事件」に始まるドタバタ劇が、いわば衆人環視のもとでくり広げられたということだ。このあたり、くわしくは次回で検討する。