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徳川家康、出生の奇説 4 - ちょっとはましな「替え玉説」

 今回は、「家康替え玉説」の弱点を指摘するとともに、ちょっと「修正」を加えてみる。長くなったから、目次つきだ。

  

1. 事実を知る人が多すぎる

 前回、村岡素一郎氏の「家康替え玉説」について、
「なんと言ってもまずいのは、『竹千代(信康)誘拐事件』に始まるドタバタ劇が、いわば衆人環視のもとでくり広げられたということだ」
 的なことを書いた。何せこの時期には、松平元康(本物の方)はすでに三河へ戻り、岡崎の城主としてデビューを果たしている。村岡説だと、そのタイミングで家康は、元康の息子(竹千代=のちの信康)を誘拐したり、手のひら返しで元康に降伏したり、暗殺騒ぎのどさくさに、影武者(ニセ元康)になったりしたわけだ。家康というぽっと出のお調子者が起こしたバカ騒ぎは、松平家の家臣団やその周辺に、もれなく伝わっていただろう。 

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図1 岡崎城*1

 これだけの数の人間に事件の顛末を知られれば、後からこれを書き換えるのは、どんだけ巨大な権力をもっててもほとんど不可能だ。飛鳥時代奈良時代ならまだしも、戦国時代ともなれば、字を書ける人間なんて、そこらに腐るほどいるのである。公式な記録はどうにか書き換えても、個人の日記や手紙までいちいちチェックして、闇に葬れるわけがない。

 日本史の中でも戦国時代には、幕末とならんでファンが多い。特に家康のようなビッグネームについては、プロ・アマ問わず無数の研究者がいて、新史料の発掘も熱心に行われている。たとえば明智光秀について、「武将としてデビューする前は、医者だった?」と思わせる文書(図2)が見つかったのは、記憶に新しい。 

f:id:calbalacrab:20200802144225j:plain図2 米田文書*2

 村岡説が当たりなら、「ならず者どもが、若君を誘拐なう」だとか、「元康様が殺されて、お家は大混乱w ウケるww」とか、「うちの影武者も、最近割と板についてきた」などとはっきり書かれたものが、1つくらい出てきているだろう。 

 呉座勇一氏は、『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)で、
「最終的な勝者が全てを見通して状況をコントロールしていたと考えるのは陰謀論の特徴」
 だと指摘されている(72ページ)。情報統制についても、だいたいこれと同じことが言える。どんだけ有能な個人や組織でも、不特定多数に知られてしまったことを、完全に隠蔽することはできない。松平家には、織田や今川のスパイもいただろうし、のちに三河を離れ、よそに仕えるようになった人とかもいただろう。家康(ニセ元康)や家来たちがどうあがいても、そこから情報がもれるのは防ぎようがない。
「歴史の勝者なら、自分にとって都合がいいように、いくらでも史実を書き換えることができたはず」
 などと思ってしまう人は、人間にできることの限界が、よくわかってないんじゃなかろうか?

 

2. すり替えの時期を早めてみる

    それでもあえて「替え玉説」に乗るとすれば、これはもう、人質時代にすり替えるしかない。村岡説では要するに、真相を知ってる関係者が、多すぎることが問題なのである。松平元康が、駿河(今川家)で人質をやってた時代なら、ニセモノとすり替えることも、まるきり不可能じゃないだろう(すごく難しいとは思うけど)。

 元康(竹千代)は、満年齢で4~17歳くらいまで、織田家や今川家で人質として過ごした。これだけ時間が経てば、帰ってきたのが別人でも、生みの親だって気づけない。普通なら、知ってるはずのことを知らないとかで嘘がばれるけど、元康は何しろ4歳で、親元を離れているのである。生まれ故郷のことを全然知らなくても、怪しまれる恐れはまったくない。

 たとえばこの間に、元康が急死でもしたら、どうなるか? 人質がいなくなってしまえば、松平家は今川家から離反する可能性もある。そのときの情勢にもよるが、「しばらくの間代理を立てて、生きてることにしよう」などということも、あったりするのではなかろうか。

f:id:calbalacrab:20200803154620j:plain図3 今川義元*3

 この場合、本物の方の松平元康はいつ死んだのか? のちの「松平信康切腹事件」から逆算すると、人質時代もほとんど終わりごろ、16~17歳あたりでないと困る。元康は、14歳で築山殿(今川義元の親戚)と結婚し、16歳で信康、17歳のときに亀姫が生まれているからだ。
「信康は、家康(ニセ元康)の実の子ではない」
 という仮説(第2回参照)に乗るならば、少なくとも信康を(亀姫も)受精するまでは、元康に生きててもらう必要がある。

 信康誕生後、まだ亀姫が生まれないうちに、元康(本物)が急死したと仮定してみよう(あくまで仮定だが)。1559年か60年だから、今川義元としては、「さあそろそろ、尾張に進攻しようかな」という大事な時期である。尾張へ向かうには三河を通らねばならず、三河松平家の領地なのだ。

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図4 義元の尾張攻め*4

「ここで三河の者どもにヘソを曲げられたら面倒じゃ。よいよい、苦しゅうない。急ぎ代理を立てよ」
 となることも、ぎりぎりありえなくはないだろう。むろんあくまでも、尾張織田家)を倒すまでの臨時の措置である。戦に勝ちさえすれば、その後で(または最中に)死んだことにして、松平家にお悔やみを述べ、線香でもあげればOKだ(つまり、義元としては替え玉を、早晩始末する予定だった)。

 元康にはすでに妻(築山殿)がいたわけだが、これは問題にはならない。築山殿は義元の親戚で、今川家側の人間だ。義元の得になることなら、すすんで協力してくれただろう。

 

3. 家康に高値がついた理由

  ここで人探しを頼まれたのが、『駿府政事録』に出てくる「又右衛門」だ(第2回参照)。又右衛門は正体不明だが、人身売買の業者だろう。今川家は、見つけてほしい人物について、だいたい次のような条件を出したはずである。

あたりまえだが、満17歳くらい。
なるべく身寄りが少ない少年。できれば孤児。
まるきり顔が違ったらさすがにアレなので*5、そこそこ元康に似てること。
いちから教育する時間はなく、最低限、読み書きくらいはできてほしい。

 で、又右衛門が見つけてきたのが源応尼の孫、のちの家康だ。源応尼が何者かはよくわからんが、大名とか、有力者の嫁だったという話は、この場合もちろん嘘だろう(第2回)。普通の尼さんで、親を亡くしたか、捨てられたかした家康少年の育ての親だったと思われる。

 多分家康には、祖母以外に身寄りはいなかった。知源院で教育を受けたから(前回参照)、読み書きはできる。非常にいい物件だったので、今川家は高値で買ってくれた。又右衛門への口止め料も兼ねてるだろうから、500貫(多分数千万円)というのもうなずける。

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図5 一貫文
*6
 一文銭が千枚で、一貫。

 こうしてニセ元康(のちの家康)は1560年、今川軍の先鋒として出陣した。ちなみに源応尼は、その直後に死んだと言われている。死因は不明だが、タイミングがいかにもでき過ぎだし、口封じに暗殺されたんじゃあるまいか。

 今川義元桶狭間で討ち死にすると、家康(ニセ元康)はそのどさくさに、今川家と縁を切ってしまう。ここで今川家に正体をばらされるリスクもあったが、その可能性はあまり高くない。人質すり替えの件は限られた者しか知らないし、情報がもれて困るのは、むしろ今川家の方である。人質を死なせておいて、別人とすり替えたなんてことが知れ渡ったら、もう誰も今川家と同盟しようとは、思わなくなること請け合いだ。

 

4. 築山殿始末

 こうして戦国大名になったニセ元康(家康)だが、彼にとって最大のアキレス腱は、築山殿と松平信康という母子である。築山殿は当然、元康がただの替え玉だと知ってるし、信康も、母親に聞いて知っているだろう。信康に家督を譲れば、築山殿も文句はなかろうが、家康もせっかく手に入れた地位を、赤の他人に譲りたくはない。だから口実をもうけた上で、母子ともに始末したのである(第2回参照)。

f:id:calbalacrab:20200803155717j:plain図6 亀姫の墓*7

 ついでに言えば、築山殿は亀姫を産んだ後、殺されるまでの19年、家康との間に子がなかった。結婚直後はぽんぽんと2人産んだのに、ちょっと不自然じゃあるまいか? 「替え玉説」なら、この点もうまく説明がつく。築山殿にしてみれば、ニセ元康にはなんの義理もない。夫のすり替えには目をつむるとしても、
「なんであたしが謎の替え玉と、×××しなきゃいけないのよ!」
 と、思うのはそりゃ無理もない。ニセ元康と築山殿は仮面夫婦であり、子供ができないのは当然だ。

 

5. 家康の馬術問題

  この仮説では村岡説と違って、家康が被差別民出身かどうかということは、あまり(と言うか、全然)問題にしていない。が、急にいなくなっても騒ぎにならないあたり、庶民の生まれではあるのだろう。この場合1つ問題なのは、家康が馬に乗れたのかどうかということだ。もちろん戦国時代には、江戸時代ほどの身分統制はないから、庶民でも乗れた可能性はある。乗れなかったとしても、替え玉に選ばれてからの数ヵ月、みっちり訓練されればなんとかなるだろう。

f:id:calbalacrab:20200803155914j:plain図7 家康の騎馬像*8

 でも家康は、困ったことに馬術の達人で、「海道一の馬乗り」とか呼ばれているのである*9。いくらなんでも短期間の特訓で、達人レベルは無理だろうし、馬術問題は「替え玉説」にとって、大きな弱点と言えそうだ。

 でもこれ、実はなんとか説明がつかないこともないのである。家康の馬術について一番有名なのは、だいたい次のようなエピソードだ。

 小田原征伐の際に橋を渡るとき、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った。豊臣軍の諸将は要らぬ危険を避けるのが馬術の極意かと感心したという(『武将感状記』)。*10

 なんかいい感じにまとめてるけど、実は言うほど得意じゃなくて、まわりが勝手な解釈をしただけなんじゃないのという気もする。つまり記録を見る限りでは、ほんとにすごい名人だったと言い切る根拠はないのであり、「替え玉説」の致命的弱点ってわけでもなさそうだ。

 

6. 松平親氏とは何者か?

 第2回でも書いたが、徳川家(松平家)の始祖は、「松平親氏(ちかうじ)」とされている。新田源氏の子孫ということになってるが、本人は、流浪の身の上だったらしい。

 南條範夫氏の小説『三百年のベール』(学研M文庫)(第1回参照)には、主人公・平岡素一郎がこの親氏について、
「徳川家の始祖とかじゃなく、家康の実の父親ではないか?」
 と、推理を展開する場面がある(61~63ページ)。村岡素一郎氏(平岡のモデル)の説とは違うから、南條氏のオリジナルだと思うが、こっちのが筋がよさそうだ。

f:id:calbalacrab:20200803160047j:plain図8 松平広忠の墓*11

 家康の父は公式には、松平広忠ということになっている。でも家康としては、自分の本当の父親(苗字は不明だが、名は「親氏」)を、なんとか徳川家の系譜に入れときたい。だから幕府を開くとき、始祖の名を「松平親氏」にしたとみるのである。こういう場合、遠い昔の人にした方が、残ってる記録が少ない分、嘘がばれにくい。

 親氏の没年について、10通りもの説があることは、第2回で書いた。これは祖母・源応尼の素性や結婚歴について、多くの説があるのとよく似ている。
「なるべく多くの嘘話をつくり、真相をわかりにくくする」
 というのは、家康の得意技だったのかもしれない。


 ――と、ここまでは、あえて「替え玉説」(修正版)に有利なことばかり書いてきた。でもほんとのこと言えば、(村岡説ほどじゃないけど)こっちの「替え玉説」も、やはり弱点の方が多いのだ。その弱点(いくつかは、正直かなり致命的なもの)については、次で書こう。