神話とか、古代史とか。

日本をはじめあちこちの神話や古代史、古代文化について、考えたこと、わかったこと、考えたけどわからないことなど。

新版・世界の七不思議 10 - オルメカ巨石人頭像と飛鳥の石造物

 「世界の七不思議」候補のうち、クラスC*1の紹介もこれで4回目だ。今回は「⑦オルメカの巨石人頭像(メキシコ)」と、「⑧飛鳥の石造物(日本)」を紹介する。

オルメカの巨石人頭像(メキシコ) 

f:id:calbalacrab:20181017205633j:plain

画像URL
謎度: ☆☆☆☆☆
びっくり度: ☆☆☆☆☆
古さ: ☆☆☆☆
知名度: ☆☆☆

 オルメカ文明の始まりは、紀元前1400~1200年ごろとするのが主流だった。でもいまは、遅くとも前1600~1500年ごろまでさかのぼれると言われている*2南北アメリカ古代文明の中では最古であり、「アメリカ大陸の母なる文明」と呼ばれることもある。実際マヤとかアステカとか、中米(メソアメリカ)古代文明の主なルーツは、このオルメカにあるのだろう。
 「巨石人頭像」は、オルメカ文明を代表する遺物だ。正確な年代はよくわからないが、おおむね前1000年以前に造られ出したらしい。いまのところ、全部で18個発見されている*3

f:id:calbalacrab:20181105110504j:plain図1 人頭像と男*4

「『七不思議』は遺跡であるべきで、遺物はNG」
 というのがこのブログの建前ではあるし(第1回参照)、巨石人頭像は、この条件に合わないようにみえる。でも「巨石」と言うだけあって、この頭像は結構でかく(図1)、そして重い。1番軽いものでも約6トン、でかいのは40トンもある*5。建物じゃなくてもこれだけ重ければ、「動かせない」という条件を一応は満たすとしておきたい。 

f:id:calbalacrab:20181017223559j:plain
図2 人頭像×3*6

 巨石人頭像はどれも、だいたい似たような特徴をもってる(図2)。つまり「ヘルメット(のようなもの)をかぶってて」、「鼻が平たく」、「唇が厚い」。写真じゃちょっとわかりにくいけど、寄り目(左右の瞳が中央に寄ってる)が多いのも1つの特徴だ。
 昔は特に鼻や唇が、ネグロイド(いわゆる黒人)っぽいということで、
「オルメカ文明を築いたのは、実はアフリカから来た人々だったんだよ!」
 などと言われたりもしたが、いまじゃほぼ否定されている*7。オルメカ文明の栄えたメキシコにも、こういう顔の人は普通にいるからだ*8(図3)。

f:id:calbalacrab:20181017212145j:plain図3 チアパス州の青年*9

f:id:calbalacrab:20181017231043j:plain
図4 会議の群像*10

f:id:calbalacrab:20181017214654g:plain図5 翡翠の仮面*11
 人頭像と同じく寄り目だが、鼻筋は通っている。

 ただ人頭像は、その他のオルメカ美術でよく見られる顔の表現(図4・5)とはかなり違ってて、その点はちょっと不思議である。そもそも巨石人頭像とは、何を表したものなのか? 「リーダー、または戦士の像」とも言われるが、「捕虜とかの斬り落とされた首」とする説もあって*12、よくわかんないのが現状だ。でもたしかに、有力者の像を造るのに、首だけというのは妙でもあり、案外後者もありそうにみえる。

f:id:calbalacrab:20181017225855j:plain図6 オルメカの石碑*13

 ちなみにオルメカには、固有の文字*14もある(図6)。マヤ文字によく似ているが、解読は進んでいないらしい*15。巨石人頭像に限らずオルメカは、いまもって謎の文明だ。
 「七不思議」候補としてみた場合、巨石人頭像の弱点は、分布範囲が広すぎることだ。ともに人頭像が出土した遺跡――たとえばラ=ベンタ遺跡とトレス=サポーテス遺跡とは、直線で153km離れている。これはさすがに、「比較的狭い範囲に集中する」という「七不思議」の条件(当ブログが勝手に決めたもの。第1回 参照)に照らして問題ありだろう。ド迫力だし不思議だし、古代美術の中でもかなり好きなのだが、やはりクラスCということでいい。

飛鳥の石造物(日本) 

f:id:calbalacrab:20181020013040j:plain

画像URL
謎度: ☆☆☆☆☆
びっくり度: ☆☆☆☆
古さ: ☆☆
知名度: ☆☆☆

 奈良県飛鳥地方に散在する、なんだかよくわからない石造物である。「酒船石」や「亀石」のように、ほぼ野ざらしのものがある一方、「須弥山(しゅみせん)石」や「石人像」は、飛鳥資料館に展示されている。ほかには「猿石」「二面石」「人頭石」「益田岩船」、変わったところでは「マラ石」「弥勒石」「文様石」に、「出水の酒船石」というのもある。1992年に見つかった「亀形石造物」も加えるべきだろう。「鬼の俎(まないた)」「鬼の雪隠(せっちん)」もあるが(以上、図7~20*16)、これらは正体(古墳の石槨*17)がはっきりしてるから、分けて考えた方がいい*18

f:id:calbalacrab:20181024112923j:plain図7 酒船石*19

f:id:calbalacrab:20181024113315j:plain図8 亀石*20

f:id:calbalacrab:20181024113730j:plain図9 須弥山石*21

f:id:calbalacrab:20181024115217j:plain
図10 猿石*22

f:id:calbalacrab:20181024194857j:plain図11 高取城の猿石*23

f:id:calbalacrab:20181024195412j:plain図12 二面石*24

f:id:calbalacrab:20181024200221j:plain図13 人頭石*25

f:id:calbalacrab:20181024195817j:plain図14 益田岩船*26 

f:id:calbalacrab:20181024201315j:plain図15 マラ石*27

f:id:calbalacrab:20181024201723j:plain図16 弥勒*28

f:id:calbalacrab:20181024202119j:plain図17 文様石*29

f:id:calbalacrab:20181024202740j:plain
図18 出水の酒船石*30

f:id:calbalacrab:20181024203635j:plain
図19 亀形石造物*31

f:id:calbalacrab:20181024204632j:plain
図20 左:鬼の俎/右:鬼の雪隠*32

 見ての通り、日本美術史の中では浮きまくりと言うか、見たことないようなものが多い。『日本書紀』などから、少なくともその大部分は、斉明天皇飛鳥時代。594~661年)が造らせたと考えられている。
 斉明は、天智天皇中大兄皇子)や天武天皇大海人皇子)の母親で、本人も2度天皇になってる(1回目は「皇極天皇」。同一人物なのに、名前が2つあってややこしい)。皇極については、大化改新のときの天皇だと言えば、わかりやすいかもしれない。大化改新の再現映像とかで、蘇我入鹿が暗殺されたとき、玉座でめっちゃ驚いてるおばさん*33皇極天皇だ。
 斉明の在位は655年からの6年間だから、このころ集中的に、石造物を造らせてたらしい。斉明個人の趣味的な事業だったから、後世にまったく受け継がれず、特異な作例になったものだろう。斉明が、石を使った土木工事を好んだという話は、『日本書紀』にちゃんと載っている。石で水路を造ったりもしたが、「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」とか呼ばれて、えらく評判が悪かったらしい*34
 「造らせた」のは斉明だが、実際「造った」のは多分、渡来人だろう(どこからの渡来人かは諸説ある*35)。特に石人像や猿石、人頭石などは、ぱっと見でいかにも異国風だ。
 ものによっては使い道も、ある程度推定されている。石人像と須弥山石は噴水になってて、庭園の舞台装置に使われたらしい。酒船石や亀形石造物は、「両槻宮(ふたつきのみや)」(斉明の宮殿の1つ)の施設だと考えられている*36

f:id:calbalacrab:20181024214710j:plain図21
 90°起こしてみた益田岩船。屋根とひさしがあって、ちょうど家みたいな形になる。

 益田岩船は、これらとはちょっと毛色が違い、どうも古墳の石槨として造られたらしい。ほんとはここから90°引っぱり起こし(図21)、2つの穴に棺を納める予定だった*37。でも途中でひびが入ったから、未完成で放置されたという*38。多分これが正解だと思うが、ただこの場合、なぜまたわざわざ真上から穴を開けたかが謎ではある。上からだと、石のカケラを外へ出すのも面倒だし、雨が降ったら水が溜まってしまう。常識的に考えれば、横から掘ると思うのだが。
 どれも見るだけで楽しいし、まだわからないことが多いから「謎度」もかなり高い。ではなぜクラスCなのかと言えば、日本美術をよく知らない人(たとえば、海外の人)にはちょっと、すごさが伝わりにくいと思うからだ。特に猿石とか、飛鳥にあるからびっくりするけれど、世界的にはこの手の石像はそれほど珍しくない。
 もちろん、酒船石のデザインなどはSF的と言うか、人類史レベルで傑作だと思う。が、これ1つでイースター島第2回)やテオティワカン第3回)に対抗しろと言われても、無理そうだからクラスCにした。

*1:クラスCの顔ぶれは、「 ①クノッソス宮殿ギリシャ)」「②ペトラ(ヨルダン)」「③サン=アグスティン(コロンビア)」「④兵馬俑(中国)」「⑤万里の長城(中国)」「⑥三星堆遺跡(中国)」「⑦オルメカの巨石人頭像(メキシコ)」「⑧飛鳥の石造物(日本)」「⑨メスカルティタン(メキシコ)」「⑩グラストンベリ=トール(イギリス)」。

*2:Olmecs - Wikipedia

*3:Olmec colossal heads - Wikipedia

*4:http://blogsdelagente.com/blogfiles/eneas/detrasdecamarasolmeca.jpg

*5:Olmec colossal heads - Wikipedia

*6:左:https://classconnection.s3.amazonaws.com/198/flashcards/3096198/jpg/colossal_head-1427DF7CE2F778D57C9.jpg/中:http://www.lazerhorse.org/wp-content/uploads/2014/10/Olmec-Art-Colossal-Head.png/右:https://i.pinimg.com/736x/a7/6f/ef/a76fefe99b06e9bacb2d5e2313db7721--archaeology-latin-amerika.jpg

*7:もちろん広い意味で言えば、全人類はアフリカ出身だが。

*8:ピーター=ジェイムズほか『古代文明の謎はどこまで解けたか(2)』太田出版 2004年 113~114ページ。

*9:http://www.latinamericanstudies.org/olmec/chamula-youth.jpg

*10:https://s3.amazonaws.com/classconnection/661/flashcards/5437661/jpg/offering__4-1491969C8D46E9AE851.jpg 

*11:https://i.pinimg.com/originals/7b/c7/66/7bc766f081429cd6ccc51c9adedf418d.gif

*12:Claude-François Baudez, 'Beauty and Ugliness in Olmec Monumental Sculpture', Journal de la société des américanistes, 98 (2), 2012, pp. 7-31. ここで読める。

*13:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/59/Estela_C_de_Tres_Zapotes.jpg

*14:「イスミアン(地峡)文字 Isthmian script」「エピ=オルメカ文字」など、さまざまに呼ばれる。前500年ごろから使われてたらしい。参考:Isthmian script - Wikipedia

*15:テレンス=カウフマンとジョン=ジャステソンは1993~1997年にかけて、解読に成功したと発表した。が、これには有力な反論もあって、決着していない。参考:Isthmian script - Wikipedia

*16:紹介写真は、石人像。

*17:石槨は、棺を入れる場所。

*18:ほかには、「岡の立石」「上居の立石」などの立石群もある。なお石造物については、飛鳥資料館の図録『あすかの石造物』(2000年)がくわしい。

*19:https://i1.wp.com/www.esascosas.com/wp-content/uploads/2016/12/Sakafune2.jpg

*20:http://tmyun.com/jpeg/yun_3000.jpg

*21:https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/29/e6a839a51da63a91909ccc76df63d3c1.jpg

*22:左:http://img.over-blog-kiwi.com/0/11/61/24/201208/ob_b9e61fff7a887c34a800ff6cfd5e8e84_dscn6839.JPG/右:http://img.over-blog-kiwi.com/0/11/61/24/201208/ob_95df7c22bdf5f45605e74282d6d839ca_dscn6841.JPG

*23:https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/28/00/91/src_28009108.jpg?1359777081

*24:https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-8b-b1/pgghy044/folder/1511634/16/60967816/img_20?1325808641

*25:http://blog-imgs-42.fc2.com/a/t/a/atamatote/E7D_0984.jpg

*26:http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/kankou/spot/images/hpmasudaiwahune.jpg

*27:http://www.ilovemanta.jp/nara/photo/nara16042914.jpg

*28:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/8/8b/AsukaMirokuIshi.jpg

*29:http://www.megalithic.co.uk/a558/a312/gallery/Far_East/Japan/s-IMG_2107.jpg

*30:https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-98-9a/mushipro75/folder/1535203/96/63581396/img_0?1417871162

*31:http://blog-imgs-27.fc2.com/e/m/b/embroideryaddictions/IMG_3919.jpg

*32:左:http://mahorobanomori.web.fc2.com/asuka-144-01.JPG/右:http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/contents/images/0000000667/7818be13d21a8e6338032795adba4297.jpg

*33:当時50歳くらい。

*34:岩波文庫日本書紀(4)』1995年 334~337ページ。

*35:百済系が有力だが、人によってはペルシアとか、インドネシアにルーツを求めている。
百済説: 斎藤忠『日本古代遺跡の研究 論考編』吉川弘文館 1976年 375~391ページ。
ペルシア説: 松本清張ペルセポリスから飛鳥へ』日本放送出版協会 1988年。
インドネシア説: 小川光晹『黒潮に乗ってきた古代文化』日本放送出版協会 1990年。

*36:酒船石遺跡 - Wikipedia

*37:斉明は、娘である間人(はしひと)皇女と合葬されたという。岩波文庫日本書紀(5)』1995年 38ページ。益田岩船は、この合葬墓用に造られたのだろう。最初は建王(「たけるのみこ」。斉明の孫)を合葬する予定だったのかもしれない。

*38:参考: 益田岩船 - Wikipedia