神話とか、古代史とか。

日本をはじめあちこちの神話や古代史、古代文化について、考えたこと、わかったこと、考えたけどわからないことなど。

はじめに

 基本的には、過去に発表した論文などをPDF化して、ひっそり公開する場所ということにしたい。でもこれらはいかんせん論文調で(論文だから仕方ない気もするが)、いま見ると多少読みにくい。

 これだとどうも不親切なので、ブログの本文であれこれと、解説もするつもりでいる。まだ発表してないことも、多分そのうちに書くだろう。

 現在公開中のファイルは以下の通り。※2017年以降の論文は、こちらから。


 1. 吊手土器の象徴性(上) PDF
(大和書房『東アジアの古代文化』96号 1998年)

2. 吊手土器の象徴性(下) PDF
(大和書房『東アジアの古代文化』97号 1998年)

3. スサノヲと植物仮装来訪神 PDF
(大和書房『東アジアの古代文化』108号 2001年)

4. 道祖神と近親相姦
角川書店『怪』18号 2005年)
本文: PDF
注釈: MHT


 ついでにそれぞれの内容を、簡単に紹介しておこう。

「吊手土器の象徴性」
 論文では「吊手土器」だが、普通は「釣手土器」と書く。実はこれ、最初は手書きの論文だったので、一回一回「釣」と書くのが面倒になり、画数の少ない「吊」を使ったのだ。
 釣手土器は、お祭用の縄文土器である。非常に凝った細工がほどこしてあるが、文様が抽象的なので、どういう意味があるのか一見わからない。で、それぞれの文様の意味を考えてみた。「ぱっと見の印象」とかのあてずっぽうではなく、一応それなりに根拠がある。


「スサノヲと植物仮装来訪神」

 植物仮装来訪神というのは、造語である。秋田のナマハゲのように、植物を身にまとった来訪神(決まった時期に人里を訪ねてくる神)のことだ。日本神話のスサノヲは、もともとこの種の来訪神だったんじゃないの、という仮説を唱えている。

 

道祖神と近親相姦

 道祖神(境界の守護神)について、いろんな角度から考えてみたもの。都合7本(序文と結語を含めれば、9本)の論文からなるので、割と長い。自分では、特に「I 誰がサヨヒメを殺したか」と「V 盲僧と境界」、「VI 諏訪のミシャグチ」あたりが、いまでもかなりいいと思う。


  なお、プロフィールの「川谷真」は、管理者(=私)の本名だ。PDFを見れば、どうせ本名が書いてあるし、普通に公開することにした。

2017年以降の論文

 「はじめに」に追記するつもりでいたが、1つの記事があまり長くなるのはなんか嫌なので、別立てにしてみた。

 2017年と2018年にそれぞれ2本ずつ発表し、今年はいまのとこ、「綏靖型暴君伝説の展開」だけ。あと1コくらい、年内に発表したいものだ。

 以下例によって、「公開中のファイル」と「内容紹介」を。


1. ワカヒコ - タカヒコネ神話と昔話 PDF
(『比較民俗学会報』169号 比較民俗学会 2017年1月)

2. ウケヒと「競争的単性生殖」の神話 PDF
(『比較民俗学会報』171号 比較民俗学会 2017年7月)
3. 「物言わぬ子」と異類婿 PDF
(『比較民俗学会報』173号 比較民俗学会 2018年3月)
4. 東と西の「影鰐型」説話 PDF
(『説話・伝承学』26号 説話・伝承学会 2018年3月)
5. 綏靖型暴君伝説の展開 PDF
(『比較民俗学会報』178号 比較民俗学会 2019年3月)

「ワカヒコ - タカヒコネ神話と昔話」
 『古事記』『日本書紀』に登場する、アメワカヒコとアヂスキタカヒコネの神話について考えてみたもの。やや扇情的に紹介すると、
記紀神話の中では、知られざる『殺人事件』(?)が起きていた。その犯人は、そして被害者は誰か?」
 という話でもある。ちなみに被害者が不明なのは、探偵小説でもそこそこ珍しいパターンだ。

「ウケヒと『競争的単性生殖』の神話」
 日本神話には、アマテラスとスサノヲの姉弟が「ウケヒ」という勝負をする場面がある。
「それぞれ自分の子供をつくって、その性別で優劣を決めようぜ!」
 という勝負だ。こう書くとわけがわからないが、現物を読んでもやっぱりわけがわからない。
 そんなウケヒ神話ではあるが、実は世界には、よく似た神話がいくつかある。中でも特に似てるのが、ヤズディ教(中東の謎の宗教の一つ)の創世神話である。
 というわけで、それらを並べて比較してみれば、少しはわかりやすくなるんじゃないかと、試してみたのがこの論文。ちなみに有名なところでは、ギリシア神話にも似た話がある。

「物言わぬ子」と異類婿
 ホムツワケやアヂスキタカヒコネは、割といい年になっても口が利けなかったと言われている。いろんな解釈が発表されてるが、そんなに難しくないんじゃないの、というお話。
 要はこの人ら、動物(ヘビなど)の姿で生まれたから、しゃべれなかっただけなんだろう。世界各地の昔話には、ちゃんとそういうのがあるのである。

東と西の「影鰐型」説話
 「影鰐型」とは、
「自分で殺した動物の骨を足蹴にしたら、骨が刺さって死んだ人」
 の話。実は国際的な話型だが、なぜだかあまり知られてない。もったいないから比較分析などしてみた。日本とヨーロッパの例が多いけど、これは単純に情報源が偏っているせいだろう。

綏靖型暴君伝説の展開
天皇が人を喰ったから(または人の生き血を吸ったから)、岩屋に閉じ込めて始末した」
 という話が、中世からいくつか記録されている。フィリピンにもそっくりな話があって、日本固有というわけでもなさそうだ。
 このパターンの話を、世界各地の神話・伝説――特に、火山や地震の物語と比較してみた。アーサー王とかバルバロッサとか、ヨーロッパの「眠れる英雄」譚にも寄り道した。

徳川家康、出生の奇説 5 (終) - 「替え玉説」の難しさ

 前回の改良版「替え玉説」は、自分で言うのもアレだが、村岡素一郎氏のそれ(第3回参照)よりかなりましではある。じゃこの仮説、結構いい線いってるのかと言えば、正直なとこそうでもない。改良版の「替え玉説」(「人質時代すり替え説」)には、だいたい以下のような弱点がある。

 順番に解説していこう。

 

① 松平元康の家来たちは何をしてたのか?

  いきなりでなんだが、これが一番致命的ではある。あたりまえだが元康は、何も1人で人質をやってたわけじゃない。人質時代から、三河出身の家来たちがいて、元康に仕えていたのである。名前がわかっているだけで、「鳥居元忠」「酒井忠次」「石川数正」「平岩親吉」などがいたはずだ。

f:id:calbalacrab:20200806115359j:plain図1 鳥居元忠*1

 人質時代の終わりごろ、元康が駿河で急死したとしよう。今川家がその死を秘密にし、「替え玉用意するから、よろしく~」などと、無茶を言い出したらどうなるか? 家来たちが、指をくわえてこの茶番を見てるとは到底思えない。彼らは「松平家の若殿」に仕えているのであって、ぽっと出の替え玉相手に主従ごっこをしてやる義理なんかないのである。

 駿河にいる間は、脅してなんとか黙らせたとしても、三河へ戻ってしまえば今川家のプレッシャーはもう届かない。
「こいつは、今川義元が連れてきたニセモノだぞ。そんなのに仕えていられるか!」
 と、1人も言い出さないのは謎すぎる。

f:id:calbalacrab:20200806190038j:plain図2 石川数正*2

 特にまずいのは、人質時代からの家来たちの中に、石川数正もいたことだ。数正は1585年、家康を裏切り、秀吉に乗り換えたことで知られている。数正が真相を暴露するなら、このときだって遅くはない。
「家康? あぁアレ、松平家とはなんの関係もない替え玉君だからw
 とアピールすれば、自分の裏切りを充分に正当化できたはずなのだ*3

 村岡素一郎氏の説にケチをつけたとき、「真相を知ってる人が多すぎる」のが弱点だと書いた(前回)。「人質時代すり替え説」だと、たしかに目撃者はかなり少なくてすむ。でも少数でも、決定的な証言をするはずの目撃者はやはりいたのである。「替え玉説」ではこの点を説明することが非常に難しい。

 

② 元康の「一時帰郷」をどうするか?

  松平元康は十代半ばごろ、先祖の墓参り(または「軍初め」=初陣*4)のために、いったん故郷(三河岡崎城)へ帰ったことがあるとされている。1556年(弘治2)だから、「人質時代すり替え説」でのすり替えの時期(1559~1560年)より、前のことだ。

f:id:calbalacrab:20200806115747j:plain
図3 松平八代墓*5

 これが事実なら、元康は当然この時点で、大勢の家来たちの前に姿を現しているはずだ。その後で、ニセモノとのすり替えなどできるわけがない。急遽用意した替え玉が、たまたま「双子レベルのそっくりさん」だったとか、そんな奇跡でも起こらない限り無理だろう。

f:id:calbalacrab:20200806144124j:plain
図4 映画「仮面の男」より*6
 ルイ14世には双子の兄弟がいたという設定。

 ただ、この一時帰郷の話は、『伊束*7法師物語』などに出てくるものらしい*8。この本は、いつごろ書かれたかも不明ということで、史料価値はかなり低そうだ。その意味では、ほんとに里帰りがあったかどうか、怪しいところがないでもない。

 

③ 家康は、「9歳で」売られたはずなのでは?

  「替え玉説」の主な根拠の1つは、家康が『駿府政事録』で、
「500貫で売られて、9歳から18、9歳まで駿河にいたんだよ~」
 と言っていることだ(第2回)。公式の伝記には出てこない話であり、
「家康には、何か隠された過去があるのではないか?」
 と、疑う理由にはなるだろう。

f:id:calbalacrab:20200806115957j:plain図5 『駿府政事録』*9

 でも前回の「替え玉説」だと、家康(ニセ元康)が今川義元に買いとられたのは、17歳(満年齢。数え年*10だと、18~19歳)のころ。9歳(満7歳くらい)で売られたという発言と矛盾してしまう。

 7歳で売られたというのがほんとなら、買い手は育ての親である源応尼だとしか思えない。でもその場合、500貫なんて高値で売れた理由の説明がつかなくなる*11

 

④ そもそも根拠が少なすぎる。

  「替え玉説」の根拠はだいたい、以下のようなものだ。

・家康の母方の祖母である源応尼の素性に謎が多い。
・源応尼は、家康の戦国デビュー(桶狭間の戦い)直前に死んだとされている。
・家康は、「昔駿河に500貫で売られた」と言っていたらしい。
・徳川家の系譜をつくるとき、松平親氏(流浪の身だったとされている)を始祖にした理由がはっきりしていない。
・築山殿と松平信康(嫁と長男)に対し、家康は妙に冷淡だ。

f:id:calbalacrab:20200730095609j:plain図6 源応尼*12

 どれも間接的な情況証拠という奴であり、家康が途中で別人になったことを直接裏づけるものではない。情況証拠でも、積み重なれば充分な証拠になることもあるが、これだけじゃどうにも不足だろう。なにしろ1人の人間が、途中から赤の他人に入れ替わるというのは、めったにないような異常事態である。そんな突拍子もないことがほんとに起こったのだと言い張るには、その「突拍子もなさ」に見合うだけの証拠が必要だ。


 そんなこんなでいまのところ、「替え玉説」は、やはり成り立たないと思ってよさそうだ。トンデモ系の仮説を唱える人はこういうとき、「でも、可能性がゼロとは言えないじゃないか」「まったくありえないとは言い切れないじゃないか」などと言い出すことが多い(ド素人に限らず、専門家にもよくあるパターンだ)。でもそれを言うなら、
徳川家康は、実は宇宙人だったんだよ!」
 とかいう説(?)だって、可能性はゼロじゃないのである*13

f:id:calbalacrab:20200806150003j:plain
図7 家康と……宇宙人(?)*14

 そもそも新説というものは、
「すでに知られてる説と同程度か、それ以上に可能性が高い」
 くらいでないと、発表する意味があまりない。
「従来説とくらべて確率的に、ず~っと劣る」
 と、はっきりわかるような仮説では、学問的にほとんど無価値なのだ。

 ということで、長々と語っておいてなんだけど、「徳川家康替え玉説」は、ときどき小説や漫画のネタになるくらいのポジションでちょうどいい。もちろん、
「家康は1度死にかけて、それを境に、何やら別人のようになった
 とか、そういう古文書が出てきたらまた、話は別だろう。それらしいのが家にある人は、焚きつけとかにする前に、新聞社やTV局に一報してほしい。

徳川家康、出生の奇説 4 - ちょっとはましな「替え玉説」

 今回は、「家康替え玉説」の弱点を指摘するとともに、ちょっと「修正」を加えてみる。長くなったから、目次つきだ。

  

1. 事実を知る人が多すぎる

 前回、村岡素一郎氏の「家康替え玉説」について、
「なんと言ってもまずいのは、『竹千代(信康)誘拐事件』に始まるドタバタ劇が、いわば衆人環視のもとでくり広げられたということだ」
 的なことを書いた。何せこの時期には、松平元康(本物の方)はすでに三河へ戻り、岡崎の城主としてデビューを果たしている。村岡説だと、そのタイミングで家康は、元康の息子(竹千代=のちの信康)を誘拐したり、手のひら返しで元康に降伏したり、暗殺騒ぎのどさくさに、影武者(ニセ元康)になったりしたわけだ。家康というぽっと出のお調子者が起こしたバカ騒ぎは、松平家の家臣団やその周辺に、もれなく伝わっていただろう。 

f:id:calbalacrab:20200801115530j:plain
図1 岡崎城*1

 これだけの数の人間に事件の顛末を知られれば、後からこれを書き換えるのは、どんだけ巨大な権力をもっててもほとんど不可能だ。飛鳥時代奈良時代ならまだしも、戦国時代ともなれば、字を書ける人間なんて、そこらに腐るほどいるのである。公式な記録はどうにか書き換えても、個人の日記や手紙までいちいちチェックして、闇に葬れるわけがない。

 日本史の中でも戦国時代には、幕末とならんでファンが多い。特に家康のようなビッグネームについては、プロ・アマ問わず無数の研究者がいて、新史料の発掘も熱心に行われている。たとえば明智光秀について、「武将としてデビューする前は、医者だった?」と思わせる文書(図2)が見つかったのは、記憶に新しい。 

f:id:calbalacrab:20200802144225j:plain図2 米田文書*2

 村岡説が当たりなら、「ならず者どもが、若君を誘拐なう」だとか、「元康様が殺されて、お家は大混乱w ウケるww」とか、「うちの影武者も、最近割と板についてきた」などとはっきり書かれたものが、1つくらい出てきているだろう。 

 呉座勇一氏は、『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)で、
「最終的な勝者が全てを見通して状況をコントロールしていたと考えるのは陰謀論の特徴」
 だと指摘されている(72ページ)。情報統制についても、だいたいこれと同じことが言える。どんだけ有能な個人や組織でも、不特定多数に知られてしまったことを、完全に隠蔽することはできない。松平家には、織田や今川のスパイもいただろうし、のちに三河を離れ、よそに仕えるようになった人とかもいただろう。家康(ニセ元康)や家来たちがどうあがいても、そこから情報がもれるのは防ぎようがない。
「歴史の勝者なら、自分にとって都合がいいように、いくらでも史実を書き換えることができたはず」
 などと思ってしまう人は、人間にできることの限界が、よくわかってないんじゃなかろうか?

 

2. すり替えの時期を早めてみる

    それでもあえて「替え玉説」に乗るとすれば、これはもう、人質時代にすり替えるしかない。村岡説では要するに、真相を知ってる関係者が、多すぎることが問題なのである。松平元康が、駿河(今川家)で人質をやってた時代なら、ニセモノとすり替えることも、まるきり不可能じゃないだろう(すごく難しいとは思うけど)。

 元康(竹千代)は、満年齢で4~17歳くらいまで、織田家や今川家で人質として過ごした。これだけ時間が経てば、帰ってきたのが別人でも、生みの親だって気づけない。普通なら、知ってるはずのことを知らないとかで嘘がばれるけど、元康は何しろ4歳で、親元を離れているのである。生まれ故郷のことを全然知らなくても、怪しまれる恐れはまったくない。

 たとえばこの間に、元康が急死でもしたら、どうなるか? 人質がいなくなってしまえば、松平家は今川家から離反する可能性もある。そのときの情勢にもよるが、「しばらくの間代理を立てて、生きてることにしよう」などということも、あったりするのではなかろうか。

f:id:calbalacrab:20200803154620j:plain図3 今川義元*3

 この場合、本物の方の松平元康はいつ死んだのか? のちの「松平信康切腹事件」から逆算すると、人質時代もほとんど終わりごろ、16~17歳あたりでないと困る。元康は、14歳で築山殿(今川義元の親戚)と結婚し、16歳で信康、17歳のときに亀姫が生まれているからだ。
「信康は、家康(ニセ元康)の実の子ではない」
 という仮説(第2回参照)に乗るならば、少なくとも信康を(亀姫も)受精するまでは、元康に生きててもらう必要がある。

 信康誕生後、まだ亀姫が生まれないうちに、元康(本物)が急死したと仮定してみよう(あくまで仮定だが)。1559年か60年だから、今川義元としては、「さあそろそろ、尾張に進攻しようかな」という大事な時期である。尾張へ向かうには三河を通らねばならず、三河松平家の領地なのだ。

f:id:calbalacrab:20200803155135j:plain
図4 義元の尾張攻め*4

「ここで三河の者どもにヘソを曲げられたら面倒じゃ。よいよい、苦しゅうない。急ぎ代理を立てよ」
 となることも、ぎりぎりありえなくはないだろう。むろんあくまでも、尾張織田家)を倒すまでの臨時の措置である。戦に勝ちさえすれば、その後で(または最中に)死んだことにして、松平家にお悔やみを述べ、線香でもあげればOKだ(つまり、義元としては替え玉を、早晩始末する予定だった)。

 元康にはすでに妻(築山殿)がいたわけだが、これは問題にはならない。築山殿は義元の親戚で、今川家側の人間だ。義元の得になることなら、すすんで協力してくれただろう。

 

3. 家康に高値がついた理由

  ここで人探しを頼まれたのが、『駿府政事録』に出てくる「又右衛門」だ(第2回参照)。又右衛門は正体不明だが、人身売買の業者だろう。今川家は、見つけてほしい人物について、だいたい次のような条件を出したはずである。

あたりまえだが、満17歳くらい。
なるべく身寄りが少ない少年。できれば孤児。
まるきり顔が違ったらさすがにアレなので*5、そこそこ元康に似てること。
いちから教育する時間はなく、最低限、読み書きくらいはできてほしい。

 で、又右衛門が見つけてきたのが源応尼の孫、のちの家康だ。源応尼が何者かはよくわからんが、大名とか、有力者の嫁だったという話は、この場合もちろん嘘だろう(第2回)。普通の尼さんで、親を亡くしたか、捨てられたかした家康少年の育ての親だったと思われる。

 多分家康には、祖母以外に身寄りはいなかった。知源院で教育を受けたから(前回参照)、読み書きはできる。非常にいい物件だったので、今川家は高値で買ってくれた。又右衛門への口止め料も兼ねてるだろうから、500貫(多分数千万円)というのもうなずける。

f:id:calbalacrab:20200803155414j:plain
図5 一貫文
*6
 一文銭が千枚で、一貫。

 こうしてニセ元康(のちの家康)は1560年、今川軍の先鋒として出陣した。ちなみに源応尼は、その直後に死んだと言われている。死因は不明だが、タイミングがいかにもでき過ぎだし、口封じに暗殺されたんじゃあるまいか。

 今川義元桶狭間で討ち死にすると、家康(ニセ元康)はそのどさくさに、今川家と縁を切ってしまう。ここで今川家に正体をばらされるリスクもあったが、その可能性はあまり高くない。人質すり替えの件は限られた者しか知らないし、情報がもれて困るのは、むしろ今川家の方である。人質を死なせておいて、別人とすり替えたなんてことが知れ渡ったら、もう誰も今川家と同盟しようとは、思わなくなること請け合いだ。

 

4. 築山殿始末

 こうして戦国大名になったニセ元康(家康)だが、彼にとって最大のアキレス腱は、築山殿と松平信康という母子である。築山殿は当然、元康がただの替え玉だと知ってるし、信康も、母親に聞いて知っているだろう。信康に家督を譲れば、築山殿も文句はなかろうが、家康もせっかく手に入れた地位を、赤の他人に譲りたくはない。だから口実をもうけた上で、母子ともに始末したのである(第2回参照)。

f:id:calbalacrab:20200803155717j:plain図6 亀姫の墓*7

 ついでに言えば、築山殿は亀姫を産んだ後、殺されるまでの19年、家康との間に子がなかった。結婚直後はぽんぽんと2人産んだのに、ちょっと不自然じゃあるまいか? 「替え玉説」なら、この点もうまく説明がつく。築山殿にしてみれば、ニセ元康にはなんの義理もない。夫のすり替えには目をつむるとしても、
「なんであたしが謎の替え玉と、×××しなきゃいけないのよ!」
 と、思うのはそりゃ無理もない。ニセ元康と築山殿は仮面夫婦であり、子供ができないのは当然だ。

 

5. 家康の馬術問題

  この仮説では村岡説と違って、家康が被差別民出身かどうかということは、あまり(と言うか、全然)問題にしていない。が、急にいなくなっても騒ぎにならないあたり、庶民の生まれではあるのだろう。この場合1つ問題なのは、家康が馬に乗れたのかどうかということだ。もちろん戦国時代には、江戸時代ほどの身分統制はないから、庶民でも乗れた可能性はある。乗れなかったとしても、替え玉に選ばれてからの数ヵ月、みっちり訓練されればなんとかなるだろう。

f:id:calbalacrab:20200803155914j:plain図7 家康の騎馬像*8

 でも家康は、困ったことに馬術の達人で、「海道一の馬乗り」とか呼ばれているのである*9。いくらなんでも短期間の特訓で、達人レベルは無理だろうし、馬術問題は「替え玉説」にとって、大きな弱点と言えそうだ。

 でもこれ、実はなんとか説明がつかないこともないのである。家康の馬術について一番有名なのは、だいたい次のようなエピソードだ。

 小田原征伐の際に橋を渡るとき、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った。豊臣軍の諸将は要らぬ危険を避けるのが馬術の極意かと感心したという(『武将感状記』)。*10

 なんかいい感じにまとめてるけど、実は言うほど得意じゃなくて、まわりが勝手な解釈をしただけなんじゃないのという気もする。つまり記録を見る限りでは、ほんとにすごい名人だったと言い切る根拠はないのであり、「替え玉説」の致命的弱点ってわけでもなさそうだ。

 

6. 松平親氏とは何者か?

 第2回でも書いたが、徳川家(松平家)の始祖は、「松平親氏(ちかうじ)」とされている。新田源氏の子孫ということになってるが、本人は、流浪の身の上だったらしい。

 南條範夫氏の小説『三百年のベール』(学研M文庫)(第1回参照)には、主人公・平岡素一郎がこの親氏について、
「徳川家の始祖とかじゃなく、家康の実の父親ではないか?」
 と、推理を展開する場面がある(61~63ページ)。村岡素一郎氏(平岡のモデル)の説とは違うから、南條氏のオリジナルだと思うが、こっちのが筋がよさそうだ。

f:id:calbalacrab:20200803160047j:plain図8 松平広忠の墓*11

 家康の父は公式には、松平広忠ということになっている。でも家康としては、自分の本当の父親(苗字は不明だが、名は「親氏」)を、なんとか徳川家の系譜に入れときたい。だから幕府を開くとき、始祖の名を「松平親氏」にしたとみるのである。こういう場合、遠い昔の人にした方が、残ってる記録が少ない分、嘘がばれにくい。

 親氏の没年について、10通りもの説があることは、第2回で書いた。これは祖母・源応尼の素性や結婚歴について、多くの説があるのとよく似ている。
「なるべく多くの嘘話をつくり、真相をわかりにくくする」
 というのは、家康の得意技だったのかもしれない。


 ――と、ここまでは、あえて「替え玉説」(修正版)に有利なことばかり書いてきた。でもほんとのこと言えば、(村岡説ほどじゃないけど)こっちの「替え玉説」も、やはり弱点の方が多いのだ。その弱点(いくつかは、正直かなり致命的なもの)については、次で書こう。

徳川家康、出生の奇説 3 - ニセ元康の狂詩曲

 村岡素一郎『史疑 徳川家康事蹟』*1(1902年)によれば、徳川家康は若いころ、三河の大名・松平元康と入れ替わることで、戦国武将としてデビューした。村岡説だと、その人生はなかなか入り組んだものだけど、ざっくりと要約しておこう。

① 家康誕生
 戦国時代、駿河の「少将宮前町」(現・静岡市葵区鷹匠町付近)に、「源応尼」というササラ者(被差別民の一種。第1回参照)がいた。その娘が、流れ者と深い仲になり、男の子を産んだ。この子がのちの徳川家康である。
 家康の父は、「江田松本坊」という流浪の坊さんだった。彼はとっとと駿河を去り、その後の行方は杳(よう)として知れない。

f:id:calbalacrab:20200801142441j:plain
図1 少将宮(現在は小梳神社)*2
 家康ゆかりの神社として知られる。

 ちなみにこの江田松本坊という名前は、どこから出てきたのかわからない。村岡氏が独自に集めた伝説じゃないかと思うけど、どこで聞いたか不明なのだ。このあたりは村岡説の中でも、特に怪しげなところである。

② 家康少年、売られる
 家康は、主に祖母(源応尼)の手で育てられた。また、知源院という寺の智短上人に弟子入りし、読み書きを習った。でもいたずらが過ぎて破門され、家出してぶらぶらしているところを、又右衛門という人買いに捕まってしまう(当時7歳くらい)。
 その後家康は、「酒井常光坊」なる人物に5貫で売られた*3。常光坊は「願人坊主」であり、家康も、その修行をすることになった。願人坊主は一応僧侶だが、どっちかと言うと大道芸人に近い*4

f:id:calbalacrab:20200801115031j:plain図2 家康の遺品?*5

 酒井常光坊というのも、村岡説以外では聞いたことがない名前である。酒井家に、家康の遺品と称する編み笠と三猿が伝わってたそうで(『史疑』63~64ページ)*6、そこから話をふくらませたらしい。三猿、つまり「見ざる・聞かざる・言わざる」がここで出てくるのも、ちょっと意味ありげな感じはする。

f:id:calbalacrab:20200801115244j:plain
図3 知源院(現在は「華陽院」)*7

 一方、智短(「知短」とも)上人に読み書きを習ったという話は、実際にある*8。歴史的な文献に出てくるわけじゃなく、あくまで伝説だが、事実だとしたら妙ではある。家康が大名の息子なら、松平家から教育係くらい、ついて来たのではなかろうか?
 ちなみに、人買いが子供を売る値段は、2、30銭が相場だそうで*9、5貫(または500貫)はいかにも高すぎる。家康も、この時点では「ただのガキ」であり、そんな値がつくとは思えない。

松平信康誘拐事件
 願人坊主として流浪するうちに、家康は、各地の情勢にくわしくなる。この当時、三河の大名・松平元康の子である「竹千代」*10(のちの松平信康)が、人質として駿河にいた。これに目をつけた家康(17歳くらい)は、悪友たちと手を組んで、幼い竹千代を誘拐した。松平家を「元康派」と「竹千代派」の2つに分裂させ、あわよくば、これを乗っとろうと思っていたらしい。

 1560年のことだそうだから、竹千代(信康)は、満1歳になったところである。誘拐された方も災難だが、誘拐した方も、1歳児の面倒をみるのは大変だったんじゃなかろうか。ちなみにあたりまえだが、「信康が何者かにさらわれた」なんて記録は、どこにもない。

④ 影武者・松平元康
 でもこの(どうみても無謀な)作戦は普通に失敗し、家康は、さくっと元康に降伏した。ところがその矢先、元康が暗殺されてしまう。
「この大変なときに、城主不在ってわけにもなー」
 ということで、影武者に抜擢されたのが家康だ。以後、このニセ松平元康が、三河の大名(仮)として活躍するということになる。

f:id:calbalacrab:20200801115530j:plain
図4 岡崎城*11

 ここも相当無理のあるところだ。若君誘拐の犯人がのこのこ現れれば、首が飛ぶくらいはあたりまえ。追っぱらわれるだけですめば、御の字というところだろう。それを城内に入れてしまうとは、みんな家康に甘すぎる。おまけに臨時とは言え、城主代行に成り上がったんだから、誘拐もしてみるものである。

⑤ 信康が邪魔になったので
 その後十数年、意外と有能だったニセ元康は、三河の家臣団からなんとなく、「殿」として認められるようになる。臨時代行の予定だったけど、「もう、こいつでよくね?」という雰囲気になってきたわけだ。でもこうなると、元康(本物の方)の息子である松平信康が邪魔で仕方ない。本来は、
「竹千代君(信康)が成人したら、家督はすぐお返ししますから~」
 という約束だったけど、ニセ元康は当然、返したくない。そこで信康の母(築山殿)を殺し、本人には切腹を命じて始末した。

f:id:calbalacrab:20200801115746j:plain
図5 信康の廟*12

 この「松平信康切腹事件」の説明がうまくつくとこが、村岡説の(多分一番の)長所である。でも、家臣たちの中に1人くらい、信康の立場に同情して、
「なんだあんな奴、もともとただの影武者じゃん
 などと、書き残すのがいそうなもんだけど。

松平親氏に目をつけた理由
 ニセ元康改め家康は、1603年、江戸幕府を開いた。幕府を開くには、征夷大将軍にならなきゃいけないし、征夷大将軍になるには、源氏の血筋でなきゃいけない。というわけで家康は、松平家を「新田源氏の子孫」ということにした。このとき、松平親氏前回参照)を始祖にすえたのは、彼が流浪の坊さんだったからだ。実の父親(江田松本坊)も流浪の僧だったから、家康は、似たような境遇の親氏に注目したのである。

f:id:calbalacrab:20200801115945j:plain
図6 親氏の墓(中央)*13

 どうも現在は、親氏が流浪の僧だったという伝説は、家康の時代にはなかったとされているようだ*14。これが事実なら、この部分は成り立たないということになる。

⑦ 昔の仲間にも容赦なし
 ある種の芸能民や手工業者への差別は、昔からあった。でもそれが、「穢多(えた)・非人」としてがっつりと制度化されたのは、江戸時代だ。なぜこんな政策をとったのかと言えば、自分の過去(ササラ者、または願人坊主の出身)を隠したい家康にとって、被差別民が目障りに思えたからだろう。

 これもあまり、説得力があるとは思えない。たとえば家康が、逆に差別を解消する政策をとってたら、どうか? その場合も、
「自分が昔差別されたから、熱心にとり組んだのだ」
 と主張できるだろう。要するにこれは後づけで、どうとでも言える話である。

 ――さて。ここまでみてきた通り、村岡素一郎氏が『史疑』で唱えた説は、あまり筋のいいもんじゃない。なんと言ってもまずいのは、「竹千代(信康)誘拐事件」に始まるドタバタ劇が、いわば衆人環視のもとでくり広げられたということだ。このあたり、くわしくは次回で検討する。

徳川家康、出生の奇説 2 - 謎の「源応尼」

 徳川家康について、「被差別民(ササラ者、または願人坊主)の出身だ」という説があることは前回で書いた。これを唱えたのは、村岡素一郎(1850~1932年)という静岡県庁の役人さんである。村岡氏は1902年、『史疑 徳川家康事蹟』という本*1で、この仮説をどーんと発表した。

 家康がそういう人だったとして、ではなぜ三河(愛知県の東半分)を支配する戦国大名になれたのか? 村岡説では、本物の松平元康(家康の若いころの名前)と入れ替わったから、ということになっている。つまり村岡説は、歴史小説や時代劇でときどきネタになる、「徳川家康替え玉説」の元祖でもあったりするのである。

f:id:calbalacrab:20200730095006j:plain
図1 「替え玉説」の例*2

 後世にいろいろと影響を与えた村岡説だけど、実際読んでみると、「それはさすがに無理だろー」としか言いようのないところも少なくない。たとえば、家康の数ある肖像画の中に、やけに人相の悪いのがあるところから、「貴人の相ではない」とか言ってるが(『史疑』8ページ)、そんなもん証拠になるわけない。「生まれのいやしさが顔に出ている」なんて、ごりごりの差別思想だし、学説としてどうとか言う以前の問題だ。

f:id:calbalacrab:20200730203154j:plain
図2 駿府城*3

 また、
「家康は晩年、駿河駿府城に住んでいた。人質として過ごした駿河の地に、愛着をもつのは不自然だ。生まれ故郷だからこそ、駿河にこだわっていたのだろう」
 とも言ってるけど(『史疑』18~21ページ)、話が逆だろう。家康に隠したい過去があるのなら、生まれ育ったところには、なるべく近寄りたくないはずだ。

 村岡氏が挙げた根拠の中で、いまでも比較的使えそうなのは、次の8点くらいだろう*4

根拠①
 家康は6歳から17歳くらいまで(満年齢)、駿河の今川家で人質になってた。そのころ、家康(幼名は竹千代)の祖母である「源応尼(げんおうに*5)」がちょうど駿河にいたから、家康の世話をまかされたと言われているそうだ(『史疑』32ページ)。でもなぜ家康の祖母が、そのとき都合よく駿河にいたのか、はっきりしていない。 

f:id:calbalacrab:20200730095609j:plain
図3 源応尼(家康の祖母)*6

根拠②
 またこの源応尼という人が、どうにも得体の知れないところがある。まずその素性からして、
「青木加賀守弌宗の娘」
尾張の宮の善七の娘」
「大河内左衛門佐元綱の養女(または実娘)」
「大河内但馬守満成の娘」
 と、少なくとも4つの説があり、どれが本当かいまだにわからない*7

根拠③
 
源応尼は、家康の母方の祖母である。家康の母(於大の方)の父親は水野忠政だから、源応尼はその忠政の嫁だったということになる。でも忠政以外にも、次の4人の男と結婚し、そのすべてに先立たれたと言われているのである。
2人目: 松平清康岡崎城主)
3人目: 星野秋国(三河の豪族)
4人目: 菅沼定望(〃)
5人目: 川口盛祐(〃)*8
 いくらなんでも、不自然すぎないか。少なくともその一部、もしかしたら全部がつくり話と思うのが普通ではないか?

 ここでちょっと解説しておくと、つくり話をするとき、もっともらしい話を1つつくるより、適当な話をいっぱいつくる方が、見抜かれにくくなる場合がある。何人もの大名や豪族たちの記録をいちいちチェックして、全部嘘だと証明することは、歴史の専門家だって難しい。

根拠④
 源応尼はそのころ、「少将井宮前町」(現・静岡市葵区鷹匠町付近)にいて、家康(竹千代)もここで育ったと言われている。でもここ、当時はさびれた下町で、「ササラ者」(前回参照)の集落があったらしい(『史疑』37~43ページ)。なぜここに源応尼が住んでたのか? また、今川家としても、松平家から来た人質を、わざわざ下町に置くこたないだろう。当時の家康少年は、別に人質でもなんでもなくて、普通に祖母と暮らしてただけなんじゃないか?

f:id:calbalacrab:20200730103854j:plain図4 源応尼の墓*9

根拠⑤
 ついでに言えば源応尼は、1560年5月30日に死んだという*10。ところで桶狭間の戦いは、13日後の6月12日。ここで今川義元が死んだから、家康(当時は松平元康)は人質生活を終え、晴れて三河へ戻ることになる。家康の少年時代を最もよく知ってた人物(源応尼)は、狙いすましたように、その直前に死んだということだ。

f:id:calbalacrab:20200730104534j:plain図5 松平親氏*11

根拠⑥
 家康個人とは直接関係ないが、徳川家の遠い祖先(と、される人々)の中にも、ちょっと不思議な人物がいた。松平家(のちの徳川家)の始祖と言われてる「松平親氏(ちかうじ)」という人がそれだ。関東の豪族・新田源氏の子孫ということになってるが、本人は流浪の坊さんで、「徳阿弥」と名乗っていたという*12
 ちなみに徳川家の系譜は、家康が幕府を開くとき、後づけでつくったものらしい。てことは、親氏が祖先というのも、大方つくり話だろう。どうせ嘘なのに、わざわざ流しの坊さんをチョイスするのも妙ではある。 なお、親氏の没年についても、1361年から1467年まで、10通りもの記録があって、どれが正しいやらわからない*13

f:id:calbalacrab:20200730150116j:plain
図6 『駿府政事録』(問題のページ)*14

根拠⑦
 『駿府政事録』という本の慶長17年(1612)8月19日の項に、おかしな記事がある。家康が家臣たちとの雑談の中で、
「昔、又右衛門って男が、500貫*15で俺を売っちゃってね? 9歳から18、9歳のころまで、駿河にいたもんよ」
 的なことを言っているのである。公式の伝記でも、家康は人質時代に売られたことがあるようだが、買ったのは尾張織田家である*16駿河(今川家)に売られたという記録はなく、なんのことか謎とされている。 

f:id:calbalacrab:20200730150756j:plain
図7 松平信康(家康の長男)*17

根拠⑧
 家康は36歳のころ、妻(築山殿)を殺し、長男(松平信康)を切腹させている。大河ドラマとかでは、「信長の命令で仕方なく……」とされてる場面だが、家康やその家臣団が、2人を擁護した形跡はない。そのため特に近年では、家康自身がこの2人と不仲だったという説も、かなり有力視されている*18。信康は、実は家康の子ではなく、だから嫌われていたのではないか?

 ちなみに④の、
「人質時代に家康がいた場所には、ササラ者の集落があった」
 という話は、村岡素一郎氏の調査による。私(川谷)が確認したわけではないことをお断りしておきたい。

 根拠はこんなところだが、そこから村岡氏が推定した家康の前半生は、かなりぶっ飛んだものだった。そこそこ長い話だし、それについては今度書こう。

*1:史疑 : 徳川家康事跡 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:https://www.bs-tvtokyo.co.jp/txcms/media/OFFICIAL/91/9b/56ca55d3092c976e7d03de616270.jpg

*3:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9e/Sunpu-castle_tatsumi-yagura.JPG/1200px-Sunpu-castle_tatsumi-yagura.JPG

*4:以下、村岡説そのままではなくて、やや手直しした部分もある。

*5:「げんのうに」と読むのかもしれない。

*6:https://i1.wp.com/taigaiine.com/wp-content/uploads/2020/05/33d6e5b32b1bac7a54838f7e9df601ce.jpg?fit=600%2C667&ssl=1

*7:源応尼(げんおうに) 華陽院(けよういん) 徳川家康の祖母 -武将辞典

*8:源応尼(げんおうに) 華陽院(けよういん) 徳川家康の祖母 -武将辞典

*9:https://rekisi--ad.up.seesaa.net/image/E88FAFE999BDE999A2E6BA90E5BF9CE5B0BCE381AEE5A293.jpg

*10:華陽院 - Wikipedia

*11:http://tozenzi.cside.com/matudairagoh-9a1.jpg

*12:坊さんというのは後世のつくり話とも言われるが、流浪の身ではあったらしい。参考: 松平親氏 - Wikipedia

*13:松平親氏 - Wikipedia

*14:https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03153/i04_03153_c004/i04_03153_c004_0002/i04_03153_c004_0002.pdf

*15:村岡氏は「五貫」としているが、調べた限りでは、どの写本も「五百貫」とする。参考: 徳川家康の影武者説 - Wikipedia

*16:そもそも織田家に売られた話は、嘘とする説も有力だ。参考: 徳川家康の影武者説 - Wikipedia

*17:https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2015/10/695a166b4ecfb019208fc370cdb59bae.jpg

*18:松平信康 - Wikipedia

徳川家康、出生の奇説 1 - 「ササラ者」とは何か?

f:id:calbalacrab:20200728144657j:plain
図1 カムイ伝*1

 昔、白土三平の漫画『カムイ伝』に、「家康は簓者(ささらもの)の出身だ」という話が出てきた。ササラ者とは、ササラという楽器で伴奏しつつ、教訓めいた物語(説経節*2)を聞かせる芸能民のことだ。「説経節」というくらいだから、もともとは仏教的な教訓話であり、ササラ者は民間の宗教者でもあった。中世以来、「ササラ乞食」などと呼ばれて差別され、一種の賤民(被差別民)とみなされてたらしい。

f:id:calbalacrab:20200728145845j:plain図2 ササラ者*3
 左上で踊ってる人がササラ者。

f:id:calbalacrab:20200728150527j:plain図3 ハーメルンの笛吹き*4

 「ハーメルンの笛吹き男」*5とかもそうだけど、都市や農村に定住する人はどういうわけか、旅の芸人を怖がったり、見下したりとかするのである。ガキのころ人をからかうときに、「ばーか、ばーか、チンドン屋」などと言っていたものだが、ここでチンドン屋大道芸人の一種)が出てくるあたりにも、この手の差別感の根深さがみえるという気がする。いまだって、芸能的なことをやってる人々に対し、
「TVに出てるなら『上』だけど、出てないようなら自分たちよりず~っと『下』
 くらいの感覚でいる人は、案外多いのではなかろうか?

f:id:calbalacrab:20200728151252j:plain図4 茶筅*6

 ちなみにササラとは、もともとは楽器ではなくて、「茶筅(ちゃせん)」という茶器の一種である*7。茶道をする人が、お茶をさらさらかき混ぜる場面に必ず出てくる例のアレだ。もっと身近なところでは、食器洗いのブラシとしても似たような道具が使われて、やはり「ササラ」と呼ばれていた。

 ササラ者たちはこのササラを、楽器代わりに使っていたらしい。「ササラ子」という棒でササラをこすると、風に揺れる稲穂のような、さらさらいう音が出るそうだ。ここからどういうプロセスを経たのかはよく知らないが、のちには図5(右)のような、がっつりした楽器(「びんざさら」という)に発展した。

f:id:calbalacrab:20200728151956j:plain
図5 ササラ(楽器の方)*8

 要するに『カムイ伝』では、
徳川家康は武士階級の出身ではなくて、被差別民だった」
 と、設定されていたわけだ。これはどうも、村岡素一郎*9という人が1902年、『史疑 徳川家康事蹟』*10で発表した説が元ネタになっているらしい。
「身分制社会の頂点に君臨した人が、実は最底辺の生まれだったとしたらどうか?」
 という発想の奇抜さが、クリエイター心を刺激するのだろう。『カムイ伝』に限らず、この仮説は、何度かフィクションのネタにされてきた。その1つ、南條範夫『三百年のベール 異伝徳川家康』(学研M文庫)という小説を最近読んだので、これについてちょっと語りたい。 

f:id:calbalacrab:20200728154909p:plain図6 『三百年のベール』*11
 家康の顔の悪さがなんとも素晴らしい。

 ちなみにこの小説、主人公は家康ではないし、舞台も戦国や江戸ではない。村岡素一郎氏をモデルにした人物(岡素一郎)が、ふとしかきっかけから家康の出生に興味をもち、新説を発表するまでの物語だ。下手にエピソードを盛ろうとせず、簡潔かつ論理的な展開で、とても面白い。

 ところで南條氏は作中で、
「必ずしも、素一郎の所論に全面的に賛成した訳ではない」
 と書いている(271ページ)。実際、小説の出来ばえとは別に、主人公の主張に納得いくかと言えば、これは正直微妙である。というわけで、ここから何回かに分けて、村岡説についていろいろと、考えてみることにしよう。