神話とか、古代史とか。

日本をはじめあちこちの神話や古代史、古代文化について、考えたこと、わかったこと、考えたけどわからないことなど。

新版・世界の七不思議 23 - モアイの「たまたま」そっくりさん

 以前、たしかツイッターか何かで、
「モアイの『たまたまそっくりさん』とか、結構あちこちにある」
 的なことを書いた。言いっぱなしというのもちょっとアレなので、知ってる限りのモアイのそっくりさんを、ランキング形式で発表してみたい。ランキングと言っても5つしかないし、大して長くはならないと思う。

第5位 ウィラコチャボリビア) 

f:id:calbalacrab:20200311114524j:plain図1 ウィラコチャ*1

 南米のティワナク遺跡には、「ウィラコチャ」という神の石像(多分)がいくつかある。図1はその1つで、「フライレFraile」(司祭)という愛称で呼ばれているそうだ。
 子供のころ本で見たときは、「モアイみたいだな」と素で思ったのだが、いま見るとそんなに似ていない。強いて言えば、「ちょっと面長なとこ」と、「腹に手を当ててるとこ」が共通点か?
 でかい石像と言ったらモアイくらいしか知らないお年ごろだったから、ちょっとでも似たところがあれば、モアイを連想してしまったんだろう。ちなみに、ウィラコチャ像とモアイとの関係(正確に言うと、なんの関係もなさそうなこと)は、第19回で書いておいた。

第4位 トルハルバン済州島) 

f:id:calbalacrab:20200311115228j:plain図2 トルハルバン*2

 済州(チェジュ)島と言えば、朝鮮半島南岸沖のかなり大きな島だ。1845km2だそうだから、佐渡島(854.76km2)の倍以上、沖縄本島(1206.99km2)の約1.5倍というところか。余談だが、天気予報でよく「済州島沖合いを通過し……」とかなんとか言っている気がする。
 トルハルバン(돌하르방/Dol hareubang)は、済州島のシンボル的な石像で、島のあちこちにあるらしい。村の守護神ということで、その入口に置かれていることが多い。
 顔とかは別にモアイっぽくないが、頭に乗せた帽子の形や(モアイのは、帽子じゃなくて髪型らしいけど*3)、脚がないところ、両手を腹に当ててるところは割と近い(図3参照)。ただ、トルハルバンの手は、モアイと違ってたいていの場合、左右の高さがずらしてある。

f:id:calbalacrab:20200311192934j:plain図3 モアイ*4

 トルハルバンは1754年に初めて造られたそうだから*5、モアイ(1250年ごろ~*6)とくらべても、結構新しい。済州島に固有かと言うとそうでもないようで、朝鮮半島本土にもよく似た石像がある(図4)。これは境界の守り神で、「チャンスン」(장승/Jangseung*7)という。日本で言うと、道祖神みたいなものだろう。チャンスンと道祖神については、「道祖神と近親相姦」の2ページ目あたりで書いたから、そっちも参照してもらえるといろいろありがたい。

f:id:calbalacrab:20200311191709j:plain図4 石のチャンスン*8
 韓国全羅北道南原市、實相寺실상사/Silsangsa)にある。


 記録によればチャンスンは、759年には、すでに造られていたようだ*9。チャンスンは普通木製で(図5)、古いものは現存していない。石で造られたものとしては、雲興寺(全羅南道羅州市)にある1719年のが古いらしい*10済州島のトルハルバンも、本土の石チャンスンの影響で、造られるようになったものだろう。

f:id:calbalacrab:20200311194239j:plain図5 木のチャンスン*11

第3位 人頭石奈良県高取町) 

f:id:calbalacrab:20200311194554j:plain図6 人頭石*12

 第10回でもとり上げた、「飛鳥の謎の石造物」の1つだ。顔の輪郭とか耳の長さとか、こうなると、かなりモアイに近いと言っていいと思う。飛鳥のほかの石造物と同じく、7世紀に造られたものだろうし、モアイの時代よりかなり古い。
 ちなみに現在は、光林寺という寺で手水石代わりになっている。顔の右側は、削りとられたような平面で、何も彫刻されていない(図7)。もともと左側から見るもので、右は造ってないのかもしれない。

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図7 人頭石(正面)*13

第2位 万治の石仏(長野県下諏訪町) 

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図8 万治の石仏*14

 その名の通り石仏なんだけど、仏像感はかなり低い。頭の部分は、体が彫られた巨岩の上に乗っているだけだ(いまは落っこちないように、金具か何かで留めてあるらしい)。巨岩の方に銘文があり、江戸時代前期、万治3年(1660年)の作だということがわかる。

f:id:calbalacrab:20200311200200j:plain図9 万治の石仏(頭部)*15

 目から下の部分が長いこと、口を微妙にすぼめてるように見えるところなど、たしかにモアイ風ではある(眉毛らしきものが彫られている点は違うが)。耳も長いけど、これは仏像だからあたりまえだ。
 小説家の新田次郎はこれに触発されて、「万治の石仏」という短編を書いた。イースター島からモアイの頭部が運ばれ、巨岩の上に置かれたというぶっ飛んだ話になっているらしい。未読だが、後学のために読んでみたいという気もする。

第1位 カラヒア遺跡(ペルー) 

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図10 カラヒアの柩*16

 カラヒアKarajía遺跡はインカ帝国(1438~1533年)以前、ペルー北部で栄えたという「チャチャポヤスChachapoyas文化」の遺跡だ。断崖絶壁に、人型の像がならべてある。
 「ペルーのモアイ」とも呼ばれているだけあって、たしかにこれが一番モアイに似ていると思う。特に、
「眉毛の部分が庇(ひさし)状になり、そこからとがった鼻が伸びる」
 という造形センスが瓜二つだ。でかいのは2.5メートルもあるそうで、モアイほどではないけど、巨像である。
 ただ、モアイと違って石像ではなくて、主に粘土でできているらしい。この像は実は柩であり、中にミイラがしまってある。モアイはむろん柩ではないが、その台座である「アフ」からは、人骨が見つかることが多い(第14回)。「死」や「墓」とのかかわりが深いとこも、カラヒア遺跡とモアイとの共通点の1つと言えそうだ。
 カラヒアは15世紀の遺跡だそうだから*17、モアイが造られ始めたころ(1250年ごろ)よりかなり新しい。似てるのはたまたまだろうけど、楽しい偶然の一致である。

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図11 クエラップ遺跡*18

 ちなみにチャチャポヤス文化と言えば、「クエラップKuélap」という城塞都市遺跡(図11。主に900~1100年ごろ*19)を築いたりもしている。最近まであまり知られていなかった遺跡だそうだけど、写真の通り、なんかすごそうだ。

 古い石像と言えば、モアイが圧倒的に有名で、ヴィジュアルも印象的である。そのせいか、素朴な石像を見ると無意識にモアイと比較する癖が、現代人(その一部)にはある気がする。あらぬ場所でモアイを見つけたら、「そんな言うほどモアイかな?」と、一度は疑った方がいい。

新版・世界の七不思議 22 - 長耳風習②アメリカ・オセアニア編

 前回に続き、「長耳風習」の話である。今回も各地の長耳風習について、「プラグ式か、ウェイト式か」「結果型か、目的型か」「男女どちらがやってるか」に注目してみていくことにしたい。ちなみに、それぞれの用語の意味は、以下の通り。

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図1 左:プラグ式/右:ウェイト式*1

プラグ式: 耳たぶの穴に、筒形か皿形、または滑車状の物を入れる。これを少しずつ大きくすることで、穴を広げてゆく方式。
ウェイト式: 耳環を着け、その重さで穴を広げる方式。

結果型: よりゴージャスな耳飾りを着けようとして、結果的に耳が長くなる場合。耳を長くすること自体が目的ではない。
目的型: 「長い耳たぶがカッコいい」という美意識があり、これが目的になっている場合。

 前回も書いたが、厳密には区別できないことも多く、あくまで便宜的な分類というところもある。じゃ、まず北米から行ってみよう。

① チェロキー族アメリカ)

f:id:calbalacrab:20200213145940j:plain図2 ジョージ=ロウリー*2

 アメリカ大陸の先住民と言えば、ちょっと前までは「インディアン」(直訳すると「インド人」)というけったいな名前で呼ばれていた。自分がたどり着いた土地をコロンブス(図3)が、「インドだ!」と言い張ったせいで、ややこしいことになったらしい。まぎらわしい上に、先住民とインド人、どっちに向いても失礼な話ということで、いまは「ネイティヴ・アメリカン」と呼ぶことが多い。

f:id:calbalacrab:20200213231222j:plain図3 コロンブス*3

 それはともかく、特に北アメリカ大陸の先住民には、あまり長耳風習のイメージがない。でもたとえば図2を見る限り、まったくないこともないようだ。この図はジョージ=ロウリーGeorge Lowrey(1770ごろ~1843年)という人で、チェロキー族の副族長だった。スコットランド人とのハーフだが、耳飾りや鼻環は、普通にチェロキーの文化だろう。チェロキーと言えば、ミシシッピ川流域の先住民であり、少なくともそのあたりには、長耳風習があったということだ。
 ただこの肖像画をよく見ると、耳たぶの穴を長く(広く)する普通の長耳とは、どうも様子が違っている。耳たぶと言うより、耳の外側の縁――「耳輪(じりん)」の部分を切り離し、これを伸ばしているようなのだ。

f:id:calbalacrab:20200213152421j:plain図4 アッタクラク*4

 ロウリーより前のチェロキーの族長に、「アッタクラクラAttakullakulla」(1708ごろ~1777年)という人がいて、この人の耳も同じに見えるから(図4)、チェロキーの伝統なんだろう。このブログでとり上げてきた長耳風習とは、かなり毛色が違うわけだけど、これも長耳には違いなかろうということで、一応紹介することにした。
 ちなみに穴の形的に、プラグをはめるのは無理だろうし、多分ウェイト式だと思う。特にロウリーの耳飾りはかなりでかいから、どっちかと言うと結果型だろう。見つけた肖像画はどれも男のもので、女性もやってたかどうかはわからない。

② メソアメリ(中米)
 マヤ文明とかアステカ帝国とか、中米の古代文明をひっくるめて「メソアメリカ文明」という*5。マヤ・アステカのほかにも、オルメカ・サポテカ・トトナカ・ワステカなど、いろんな民族やその文明があり(図5)、本来は、別々に扱うべきだろう。でも正直、そこまでやり出すと大変そうなので、まとめてとり上げることにした。

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図5 エル=タヒン遺跡*6
 多分ワステカ文明の遺跡。マヤのピラミッドと違って、壁龕(へきがん)がある。

f:id:calbalacrab:20200215150004j:plain図6 アステカの神像*7

f:id:calbalacrab:20200215143935j:plain図7 トトナカの女性像*8

 メソアメリカ文明の遺跡から出てくる人物像は、でっかい耳飾りを着けていることが多い(図6・7)。滑車状、または円筒状の耳飾り(図8)を、耳たぶの穴にねじ込む方式だったらしい。普通の耳たぶには当然着けられないし、やはり中米にも、長耳風習はあったということだ。

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図8 アステカの耳飾り*9
 黒曜石でできているそうだが、ここまで薄くできるものか。

 耳飾りの形から、もちろんプラグ式だということはわかる。図7は明らかに女性だし、男女ともやっていたのだろう*10
 耳飾りはかなりでかいから、これを身に着けている限り、耳たぶ自体はあまり目立たない。そこだけみれば、結果型じゃないのという気がする。でも中には、耳飾りを着けてないように見える人物像もあり(図9)、目的型の側面も、全然ないとは言い切れない。

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図9 ワステカの人物像*11
 着けてるような、着けてないような。

③ トゥーラ=シココティトラン(メキシコ)

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図10 トゥーラ遺跡*12

 トゥーラ=シココティトラン(900~1150年ごろ*13)もメソアメリカの遺跡なんだけど、ちょっと珍しい特徴があるから、別にとり上げることにした。ちなみにトゥーラと言えば、「トルテカ帝国」の都とされてきたが、この話、ちょっと怪しくなってきてるらしい。
「トルテカというのは半ば伝説的な存在で、実際にトゥーラを建てたのは、オトミ族やマトラツィンカ族だったんじゃないの?」
 と言われているそうだ*14
 それはともかく、長耳風習との関連で注目したいのは、「ピラミッドB」の上に立つ柱像群(図11)である。

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図11 戦士の像
*15

 一見非常に細長い耳がついているみたいだし、その昔本で見たときも、
イースター島と同じで、この人たちにも長耳風習があったんだなぁ」
 と、妙に感心したものである。でもよく見ると、これはちょっと変ではなかろうか。顔のほかのパーツは比較的リアルに彫刻されてるのに、耳だけが、こんな角張ってていいものだろうか?
 で、改めてよく調べたら、真横からの写真(図12)が見つかった。

f:id:calbalacrab:20200216121804j:plain図12 戦士の像(横から)*16

 これ見ると、耳だと思ってたものは実際は、頭飾りか何かの一部らしい。そのうしろにほんとの耳があり、こっちはそれほど長くはない。ただ、耳たぶのうしろをよく見ると、くさび形(多分)の耳飾りが耳に刺さってるようだから、普通より長いのはたしかなんだろう。でもこれは、メソアメリカの平均的な長耳と大差なさそうだ。

f:id:calbalacrab:20200216151206j:plain図13 チャックモール*17
 生贄の心臓を乗せる台だったらしい。

 ちなみに、マヤの遺跡・チチェン=イッツァで見つかった「チャックモール」の像(図13)も、耳のところに似たようなものがついている。これも頭飾りのパーツだと思うが、横からの写真が見つからず、確認できなくてもどかしい。

④ サンタレン文化(ブラジル)
 ここからは南米大陸や、イースター島(ラパ=ヌイ)の話である。第20回でも軽く触れたけど、改めて紹介しておこう。

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図14 サンタレン文化の人物像*18

 サンタレンSantarém文化は、1000~1550年ごろのブラジルの文化で、洗練された土器や土偶を残している。文化の存在自体、最近知ったばかりだし、ぶっちゃけた話、くわしいことはよく知らない。でも土器のデザインを見ていると、何やら楽しげな人たちだったんじゃないかという気がする。
 図14を見る限り、男女とも、耳を長くしていたらしい。耳飾りを着けた状態の人物像はないようだから、まず間違いなく目的型だろう。プラグ式かウェイト式かは、手がかりがなくてわからない。

⑤ リクバクツァ族(ブラジル)

f:id:calbalacrab:20200217005526j:plain図15*19

 図15はブラジルの先住民・リクバクツァRikbaktsa族のおっさんだ。数ある長耳風習の中でも、これはさすがに頂点と言うか、雲の上の世界である。とにかく耳たぶの長さ(穴のでかさ)が並み大抵じゃない。これで耳たぶが切れないんだから、この耳飾り、よほど軽い素材でできてるのか?
 見ての通りのプラグ式で、耳飾り自体の装飾性はあまりなさそうだから、多分だけど目的型だろう。ネットで写真を見た限りでは、女性はやっていないらしい。ちなみにサンタレン文化のパラー州と、リクバクツァのいるマットグロッソ州はお隣同士だが、両者の長耳風習に関係があるかはわからない。

⑥ プレ=インカ(ペルーなど)

f:id:calbalacrab:20200217121928j:plain図16 シカンの仮面*20

f:id:calbalacrab:20200217122156j:plain図17 チムーの儀礼用ナイフ*21

 アンデス文明(南米古代文明)のうち、インカ帝国(1438~1533年)より古いのを、ひとまとめに「プレ=インカ」と呼ぶ。そのうち、特にシカン文化(800~1375年ごろ)やチムー王国(1100~1470年ごろ)の人物像は、大きな耳飾りを着けていることが多い(図16・17)*22。耳飾りは滑車状、またはスタンプみたいな形だったようで(図18・19)、メソアメリカのパターンに近い。

f:id:calbalacrab:20200217122558j:plain図18 シカンの耳飾り*23

f:id:calbalacrab:20200217122648j:plain図19 チムーの耳飾り*24

 耳飾りの形からみて、もちろんプラグ式。耳飾りをはずした人物像は見当たらないことだし、結果型だろう。のちのインカ帝国では男女ともやってたようだから、プレ=インカの時点でも、多分同じではあるまいか。

インカ帝国(ペルーなど)

f:id:calbalacrab:20190926120912j:plain図20 インカの立像*25

 インカの時代になると、耳飾りをはずした状態の人物像(図20)もみられるようになる。インカの耳飾りはプラグ式で(図21)、貴族の間では、男女ともやっていたらしい*26

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図21 インカの耳飾り*27

 わざわざ耳飾りがない像をつくってるくらいだし、結果型から目的型に移行しつつある感じだろう。古代インドの場合(前回参照)と似たようなもので、
「本来は、耳飾りがステイタスシンボルだったけど、『その耳飾りを着けられる長い耳』の方も、だんだんと地位の象徴になってきた」
 といったところではなかろうか。

イースター島(チリ)

f:id:calbalacrab:20190926153344j:plain
図22 イースター島の男女*28

 モアイの耳が長いのはよく知られてるし、18世紀の肖像画(ウィリアム=ホッジス作)にも、長耳の男女(図22)が描かれてる。イースター島(ラパ=ヌイ)に長耳風習があったのは、まず間違いないところだろう。
 図22の右は女性だし、当然男女ともやっていた。どっちも盛装に見えるのに、耳飾りがないところをみると、耳に装身具を着けることは、大して重要じゃないらしい。となるとやはり、目的型だろう。

f:id:calbalacrab:20200217152209j:plain図23 モアイ(耳に注目)*29

f:id:calbalacrab:20200217152350j:plain図24 モアイ=カバカバ*30

 モアイの中には、耳飾りを着けてるように見えるものもあり(図23)、イースター島の木彫り男性像「モアイ=カバカバ」も同じである(図24)。耳たぶの先端に着けてるようだから、これが耳飾りなら、ウェイト式だったことになる。

 なお、南太平洋ではイースター島のほかに、マルケサス諸島にも長耳風習があったと言われたりもする*31。でもこれについてはいまのとこ、たしかな証拠もないようだから、ここではとり上げないことにしよう。

 さて。
イースター島の長耳風習は、プレ=インカから伝わった」
 という説があることと、これがあまりあてにならなさそうなことは、第20回で書いた。
 ここで改めて、プレ=インカとイースター島の長耳風習を比較してみると、まず(多分)男女ともやっていたことは同じである。が、プレ=インカの長耳は結果型、イースター島のは目的型だったらしいから、この点は違う。耳の延ばし方も、前者は間違いなくプラグ式で、後者は多分ウェイト式だろう。プレ=インカからイースター島へ伝わった風習にしては、共通点が少なすぎる。やっぱりこの両者の長耳風習は、それぞれ別物とみた方がいい。

*1:左:https://www.syl.ru/misc/i/ai/72626/91839.jpg/右:https://i.pinimg.com/originals/4c/64/88/4c6488101a4aefe302a089bc5e5623b6.jpg

*2:https://secureservercdn.net/45.40.155.145/5e3.341.myftpupload.com/wp-content/uploads/2015/04/024-George-Loweryw.jpg

*3:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c2/Portrait_of_a_Man%2C_Said_to_be_Christopher_Columbus.jpg

*4:https://i.pinimg.com/originals/7e/e2/d5/7ee2d5e0a7ae21c99e925c0628a1a786.jpg

*5:古代と言っても、アステカ帝国が栄えたのは1428年ごろ~1521年だが。

*6:https://mexnavi.com/wp-content/uploads/2017/04/MG_4836.jpg

*7:https://i.pinimg.com/originals/f5/7a/52/f57a5264bd04b21a115405aefa15af28.jpg

*8:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f3/Totonaque_Auch_4.jpg

*9:https://images.metmuseum.org/CRDImages/ao/original/1979.206.1089.jpg

*10:「トトナカ族の女性はやってたが、〇〇族は男だけ」とか、そういうこともあるかもしれないが。

*11:https://i.ytimg.com/vi/1foHbtOo3dg/maxresdefault.jpg

*12:https://cdn.britannica.com/83/121383-004-4B4B6509.jpg

*13:Jennifer C Ross; Sharon R Steadman, Ancient Complex Societies, Routledge, 2017, p. 324.

*14:トルテカ文明 - Wikipedia

*15:https://www.trazeetravel.com/wp-content/uploads/2016/09/Tula-Mexico-%C2%A9-Jerl71-Dreamstime-22837766-e1475002657805.jpg

*16:https://live.staticflickr.com/8810/28673373306_20e435e124_b.jpg

*17:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/64/2015-07_k1_CDMX_830.jpg

*18:左:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/archive/9/9e/20150803081435%21Cultura_Santar%C3%A9m_-_Vaso_antropomorfo_representando_um_homem_sentado_01.jpg/右:https://1.bp.blogspot.com/_nhLd8MUAavo/Sl-1n9vgyzI/AAAAAAAAGpA/H2IO7cGorvc/s1600-h/com9394a_l.jpg

*19:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/79/Rikbaktsa.jpg

*20:http://www.latinamericanstudies.org/sican/gold-mask-4.jpg

*21:https://i.pinimg.com/originals/4a/c1/3f/4ac13f90113b767236543a6f7a4ab2e2.jpg

*22:年代観については、古代アンデス文明展 展示内容参照。

*23:http://www.pompanon.fr/photos/sd/z/l/y/4f48842dd8acd.jpg

*24:https://i.pinimg.com/736x/d9/a1/88/d9a188496c06237918a24f9223d6cbfa.jpg

*25:左:https://www.metmuseum.org/toah/images/hb/hb_1974.271.7.jpg/右:http://media.puls-lifestyle.de/2014/05/orejon-Peru-Inka-Kultur-Imperiale-Phase-15.-16.-Jh.-Foto-Anatol-Dreyer-Linden-Museum-Stuttgart_4.jpg

*26:The History of Stretching - Bodyartforms

*27:https://incaarthistory.weebly.com/uploads/1/8/3/4/18342427/2439620_orig.jpg

*28:左:http://www.chauvet-translation.com/figures/Figure006.jpg/右:http://www.chauvet-translation.com/figures/Figure007.jpg

*29:https://travelswithsheila.com/wp-content/uploads/2014/04/Tongariki-top-knot-5.jpg

*30:https://www.christies.com/img/LotImages/2019/PAR/2019_PAR_17505_0063_000(la_statue_moai_kavakava_hooper_the_hooper_moai_kavakava_figure_rapa_nu).jpg

*31:トール=ヘイエルダール『アク・アク(下)』光文社 1958年 211ページ。 第20回も参照されたい。

新版・世界の七不思議 21 - 長耳風習①アフリカ・アジア編

 前回
イースター島(ラパヌイ)の長耳風習は、南米から伝わったわけじゃなさそうだ」
 という話をした。もちろんそういう趣旨だから、イースター島と南米文化が中心で、その他は簡単に触れただけだ。今回は長耳風習そのものについて、もう少し深く考えてみたい。

 世界各地の長耳風習を調べてみて、まずわかったのは、耳たぶを長くする(=耳たぶに開けた穴を広げる)には、大きく分けて2通りの方法があるということだ。1つは、
「穴に筒形か皿形、または滑車状の物を入れる。これを少しずつ、大きなものにとり換えてゆく」
 というやり方で、「プラグ式」と呼んでおこう。

f:id:calbalacrab:20190928012414j:plain図1 プラグ式*1

もう1つは、
「穴に環状の物をぶら下げる。その重さで耳たぶを伸ばしてゆく」
 というものだ。こっちを「ウェイト式」と呼ぶことにする。

f:id:calbalacrab:20190928012707j:plain図2 ウェイト式*2

 上はやり方の違い方だが、目的の違いというのもあると思う。これもやっぱり2通りあって、1つは「耳たぶを長くすること」が、目的そのものではない場合だ。つまり目的はあくまでも、「よりゴージャスな耳飾りを着けること」にある。プラグ式なら、大きな耳飾りを着けるには、穴も大きくないと困る。ウェイト式でも、より多くの耳飾りを着けようとしたら、自然と重くなるから耳たぶが伸びる。どっちにしても、耳の長さは「手段」や「結果」であって、目的ではない。

 一方、「長い耳たぶがカッコいい」という美意識があって、それが目的になっている場合もあるだろう。プラグだろうがウェイトだろうが、それらは単に耳たぶを長くするための道具なので、装飾性はなくてもいい。つまりいわゆる耳飾りじゃなくて、ただの「筒」とか「輪っか」でも、構わないというタイプである。

 前者を一応「結果型」(「手段型」でもいいかもしれない)、後者を「目的型」と呼んでおこう。

 もちろんプラグ式とウェイト式、結果型と目的型は、厳密には区別できない場合もある。現役の風習だったらまだいいが、長耳風習がとうの昔に途絶えてる場合はなおさらだ。でもせっかく分類したことだし、以下ではなるべくこれを利用して、各地の長耳風習を分析してみよう。あとついでに、「男女どちらが主にやってるか」という点にも、あわせて注目していきたい。

① マサイ族ケニア

f:id:calbalacrab:20190928142853j:plain図3*3

 アフリカ大陸東部、ケニアの先住民である。ビーズで飾ってあるからちょっとわかりにくいが、耳たぶを長く伸ばしている。

f:id:calbalacrab:20190928150703j:plain図4 マサイの少年*4
 筒状の物で穴を広げ、充分伸びたら、ビーズなどで装飾するらしい。プラグ式だが、穴を広げるのに使う物は、木の棒とかプラスチック容器とか、なんでもいいようだ(図4)。どうみても、耳たぶを伸ばすことに重点があるから、目的型だろう。実際、長い耳たぶは、「知恵と尊厳のシンボル」とされているそうだ*5。ちなみに性別は関係なく、男女とも普通にやっている(図5)。

f:id:calbalacrab:20190928150833j:plain図5 同じく女性*6

 ② ムルシ族エチオピア

f:id:calbalacrab:20190928160435j:plain図6*7

 プラグ式だが、木のプレートを使ってるあたりが珍しい。ムルシと言えば、下唇にもプレートをはめていたことで有名だ(図7)。これはさすがにすたれたんじゃないかと思ってたが、いまでもやる人はいるらしい。

f:id:calbalacrab:20190928233017j:plain図7*8

 はめてるのはただのプレートで、装飾性はない。あくまで耳たぶを伸ばすための道具という位置づけのようだし、目的型だろう。プラグ式、目的型とくればマサイに似ているが、女性しかやらない*9点は違う。ケニアエチオピアはお隣同士だし、関係はあるかもしれないが。 

③ 古代インド

f:id:calbalacrab:20190926215723j:plain
図8 ウェイト式のシヴァ*10

 インドの長耳風習は、紀元前1千年紀(前1000~前1年)にはすでに行われていたらしい*11。女神像の耳も長いから(図9)、男女の区別はないのだろう。

f:id:calbalacrab:20190930235540j:plain
図9 パールヴァティ*12

 図8はウェイト式だが、たとえばチョーラ朝(9~13世紀)の神像の中には、きっぱりプラグ式の耳飾りを着けてるものもある(図10)。どうもインドでは、2つのやり方が混在してたらしい*13

 f:id:calbalacrab:20190928200754j:plain図10 プラグ式のシヴァ*14 

  仏像もそうだが、ヒンドゥー教の神像の中にも図9のように、耳飾りがないものがある。仏像は仏教の教義上、よけいな装身具はなくて当然という気がする。が、ゴージャスが売りのヒンドゥーの神が、わざわざ耳飾りをはずしているのは妙ではある。
  多分本来は、でっかい耳飾りこそが、ステイタスシンボルだったはずだ。でもいつのころからか、「その耳飾りを着けられる長い耳」の方も、富や権勢の象徴とみなされるようになったのではないか? とすれば、(もとはおそらく結果型だけど)目的型の側面も、生まれつつあったことになる。
 そんな感じで古代インドの場合、プラグ式ともウェイト式とも、また結果型とも目的型とも簡単には、割り切れないようなところがある。何しろ広いし歴史も古いから、当然と言えば当然だ。 

④ タミル族(インド)

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図11*15

 タミル Tamil族は、インド南部の先住民族だ。インドの支配的民族であるアーリア族の侵入(紀元前1500年ごろ?*16)以前から、インドにいたらしい。ちなみに前出の「チョーラ朝」は、このタミル族が興した王朝で、ヒンドゥー美術の名品を多く残している。
 タミル族の長耳風習はウェイト式で、女性しかやらない*17。古代インドでは男女を問わなかったはずだが、いつごろ変化したものだろう? ウェイト式は、耳たぶと耳飾りがともに目立つから、結果型か目的型かはわかりにくい。 

⑤ サオラ族(インド) 

f:id:calbalacrab:20190930154135j:plain図12*18

 インド東部、オリッサ州の少数民族で、言語的にはムンダ語派に属する。ムンダ語族のルーツは、中国南部か東南アジアにあると言われているそうで*19、サオラ Saora族も同じだろう。見た目もたしかに、東~東南アジア風だ。
 長耳風習が女性限定*20なのはタミルと同じだが、こっちはプラグ式。耳にはめてるのは木の棒などで、装飾性はない。写真を見る限り、はずしてることも多いようだし(図13)、目的型だろう。

f:id:calbalacrab:20190930154655j:plain図13*21 

⑥ カヨー族(タイ)

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図14
*22

 カヨー Kayaw族の長耳風習は、写真の通りプラグ式だ。耳飾りの形は滑車状で、これを身に着けた状態では、耳たぶはそれほど目立たない。目的型なら、長い耳たぶ自体が自慢のはずだから、多分結果型なんだろう。ちなみに女性しかやってない。 

⑦ 日本

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図15*23

 少なくとも、縄文時代の日本には長耳風習があった。カヨー族と同じくプラグ式で、耳飾りが滑車状なのも同じ。図の通り、非常にゴージャスな造りの物もある。これを着けてたら、耳たぶは目立たなさげだし、どちらかと言えば結果型だろう。男女どっちの墓からも、耳飾りは見つかるそうだから*24男女とも着けていたらしい。
 ちなみに、『日本書紀』(景行12年9月)によれば、大分県中津市にはその昔、「耳垂」と呼ばれる豪族がいた。また、『肥前国風土記』(松浦郡値嘉郷条)にも、五島列島の豪族として、「大耳」「垂耳」が登場する(3者とも、景行天皇の敵とされている)。その名前から、人工的に耳を長くしていた人々とする説もある*25。九州(その一部)では古墳時代くらいまで、長耳風習が続いていたのかもしれない。 

与那国島(日本)
 いまは日本だが、1522年まで独立国だったそうだから*26、一応別にした。
 1477年、済州島の遭難者が与那国島に流れ着いたらしい。のちに帰国した彼らが、こんな記録を残している。
「其の俗、耳を穿ち、貫くに青小珠を以てし、垂るること二、三寸許りなり。」*27
与那国島の人々は耳に穴を開け、小さな青玉をこの穴に通して、2、3寸ほど垂らしている。)
 耳飾りを垂らしていたのか、耳たぶ自体が2、3寸(約6~9センチ)垂れてたのかはっきりしないけど、後者なら、長耳風習があったことになる。多分ウェイト式だと思うが、結果型か目的型かは、この記録からはわからない。男女ともやっていたそうだ。 

⑨ ダヤク族インドネシアボルネオ島

f:id:calbalacrab:20190926203108j:plain図16*28

 ばりばりのウェイト式で、男女ともにやる(図16・17)。

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図17*29

 ただの重そうな輪っかとかじゃなく、ちゃんとした耳飾りのようだから、結果型と思えなくもない。が、まさかここまで目立たせておいて、
「耳たぶの長さなんて興味ないですよ~(笑)」
 ということはあるまい。結果型と目的型が少なくとも、半々くらいではなかろうか。 

海南島(中国)

f:id:calbalacrab:20190929000609j:plain図18*30

 海南島南シナ海の島で、位置的には、半ば東南アジアである(図18)。前回も書いたが、この島について『後漢書』(5世紀)「南蛮西南夷列伝」には、次のような記録がある。
其渠帥貴長耳、皆穿而縋之、垂肩三寸。」
 日本語に訳せば、
「この島の有力者は、長い耳を尊ぶ。皆、耳たぶに穴を開けて耳飾りを着け、肩に3寸垂らしている」
 というところか*31。少なくとも、後漢時代(紀元25~220年)の海南島には、長耳風習があったことになる。耳たぶが肩に3寸(当時なら約7センチ*32)もかかっていたのなら、ダヤク族級の長さである。
 プラグ式だと、耳飾りを着けた状態で肩には届かないだろうし*33ウェイト式だろう。「長い耳を尊ぶ」というくらいだから、目的型とみてよさそうだ。男の有力者はやってただろうけど、女性がどうだかはわからない。

 この調子でアメリカ大陸やオセアニア大洋州)の事例もとり上げたいところだが、長くなったから次にしよう。

*1:https://www.syl.ru/misc/i/ai/72626/91839.jpg

*2:https://i.pinimg.com/originals/4c/64/88/4c6488101a4aefe302a089bc5e5623b6.jpg

*3:https://farm9.static.flickr.com/8607/28396764001_51a07a55d5_b.jpg

*4:http://www.jardimcor.com/wp-content/uploads/2014/03/maasi_boy_lg.jpg

*5:Maasai Culture & History

*6:https://uy.emedemujer.com/wp-content/uploads/sites/4/2018/05/Kenya.jpg

*7:https://farm5.static.flickr.com/4145/4993185617_2c7d59707d_b.jpg

*8:http://www.africa-expert.com/wp-content/uploads/2014/05/mursi-woman-with-lip-plate.jpg

*9:The history of why people have stretched ears

*10:http://wadaphoto.jp/kikou/images3/ele25l.jpg

*11:The History of Stretching - Bodyartforms

*12:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e2/Queen_Sembiyan_Mahadevi_as_the_Goddess_Parvati_%28915582657%29.jpg

*13:「プラグ式で長くした耳に、耳輪をぶら下げる」という方式だったのかもしれないが。

*14:https://i.pinimg.com/originals/62/74/84/627484fd39c80fac14b3906994b5f7d7.jpg

*15:https://i.pinimg.com/originals/03/65/34/03653436993f9e29025b3f700e00c9e2.jpg

*16:インドの歴史 - Wikipedia

*17:Earlobe Stretching - Forgotten Culture of Tamil People

*18:https://live.staticflickr.com/3244/3015961813_876a5e8c8d_b.jpg

*19:Munda languages - Wikipedia

*20:An Ancient Culture Stretched Lobes

*21:https://c1.staticflickr.com/3/2017/2337907226_be82b47903_b.jpg

*22:https://i1.kknews.cc/SIG=1gikoo8/7o600084sn3rqp6r46s.jpg

*23:左:https://www.tnm.jp/uploads/fckeditor/exhibition/special/2018/20180703jomon/uid000233_201806011929189cba4edb.jpg/右:https://pds.exblog.jp/pds/1/201007/26/54/a0133354_103271.jpg

*24:吉田泰幸「縄文時代における土製栓状耳飾の研究」『名古屋大学博物館報告』19号 2003年 46ページ。ここで読める。

*25:谷川健一『白鳥伝説』集英社 1986年 135ページ。

*26:与那国島 - Wikipedia

*27:智慧「移動と漂流史料における民族の接触と文化類縁関係」『地理歴史人類学論集』1号 琉球大学法文学部 2010年 43~61ページ。ここで読める。

*28:https://i.pinimg.com/originals/3c/f6/4b/3cf64b566adad5837f27f3369de7feb4.jpg

*29:https://steemitimages.com/p/MG5aEqKFcQi5xsGsTf2KJMpNc8YoFnbdvBW2nSQV7WyG1qhNdt4XWRyRMqE4K93xVLrkN7VJTFCfYSqPQ7wjpQyPgLciVQofU?format=match&mode=fit

*30:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E5%B3%B6-%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E5%9C%B0%E5%9B%B3.jpg

*31:読み下し文だと、「其の渠帥(きょすい)長耳を貴び、皆穿ちて之に縋(つな)ぎ、肩に垂れること三寸」。謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』立風書房 1983年 179ページ参照。

*32:参考: 中国各時代における単位表

*33:中には例外もある。リクバクツァ族(エクアドル)の男性とか。

新版・世界の七不思議 20 - 「長耳風習」は南米から?

f:id:calbalacrab:20190925224328j:plain図1 モアイの耳*1

 モアイと言えば、耳が長いことで知られている(図1)。顔が長いから、その分耳も長くなったのかと思えば、そうでもないらしい。イースター島(ラパヌイ)には実際に、耳たぶを長く伸ばした人々がいた(図2)。

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図2 耳の長い男女*2

f:id:calbalacrab:20190925225536j:plain図3 ホッジス*3

 イギリス海軍のジェームズ=クックが1774年、イースター島へ立ち寄ったとき、ウィリアム=ホッジス(図3)という画家もいっしょだった。そのホッジスが描いた絵だし、嘘ではないだろう。イースター島では少なくとも18世紀まで、耳を長くする風習が行われていたことになる。

f:id:calbalacrab:20190926013603j:plain図4 マルケサスのティキ*4

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図5 耳の長い(?)ティキ*5
 ヒヴァ=オア島(マルケサス諸島の1つ)にあるらしい。

 モアイのルーツが「ティキ」という祖先像にあることは、第14回その他で書いてきた。ティキは普通長耳じゃないが(図4)、木村重信氏によれば、オーストラル諸島などのティキ像の中には、耳が長いのもいくつかあるそうだ*6。実際、たとえば図5のティキなどは、微妙に耳が長いという気もする(ほんとに微妙だし、ただのデフォルメともとれるが)。となると、太平洋のほかの島々にも、「長耳風習」はあったのかもしれない。

f:id:calbalacrab:20190915220111j:plain図6 ウィラコチャ*7

f:id:calbalacrab:20190926120513j:plain図7 ウィラコチャの耳*8

 トール=ヘイエルダールはこの長耳風習についても、「南アメリカの古代文化にルーツがある」と主張した*9。が、第1819回で書いた通り、ヘイエルダールがティキやモアイのルーツとしたのは、ティワナク遺跡(ボリビア)のウィラコチャ像(図6)だった。ウィラコチャの耳は普通サイズだし(図7)、ヘイエルダールの仮説には合わないようにみえる。

f:id:calbalacrab:20190926120912j:plain図8 インカの立像*10

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図9 インカの耳飾り*11

 が、イースター島と同じく南米にも、耳を長くする風習があったのは事実だ。たとえばインカ帝国時代(1438~1533年)の金属製の立像には、長い耳をもつものが多い(図8)。なんでもインカの貴族たちは、大きなスタンプ状の耳飾り(図9)を耳たぶに着けていたらしい。若いころに穴を開け、少しずつ耳飾りを大きくすることで、穴を広げてゆくのだろう。耳飾りをはずせば図8のように、びろんと垂れ下がるというわけだ。スペインの侵略者たちはこれを見て、インカの貴族たちを「オレホネス Orejones」(大耳)と呼んでいたという*12

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図10 シカンの仮面と耳飾り*13
 この耳飾りは滑車状で、相当穴を広げてないと着けられない。

 もちろんインカ帝国の時代には、モアイはすでに造られていたはずだから、年代が合わない*14。でも南米では、シカン文化チムー王国の遺跡からも、でっかい耳飾りを着けた人物像が発見されている(図10)。どっちもインカ帝国より古く、それぞれ800~1375年ごろと、1100~1470年ごろに栄えていたそうだ*15。また、ブラジルのサンタレン Santarém文化(1000~1550年ごろ*16)の土器や土偶にも、長耳の人物を表すものが多い(図11)。インカ帝国ができる以前から、南米先住民(その一部)は、あの手この手で耳たぶを伸ばしていたらしい。

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図11 サンタレン文化の人物像*17

 南米原産のサツマイモがいつの時代にか、南太平洋(ポリネシア)に伝わっていたことは、第18回で書いた。このときに、シカンなどの長耳風習がいっしょに伝わったとしても、一応おかしくはないだろう。

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図12 カヨー族
*18

 ただ問題は、この長耳風習という奴が、大して珍しくはないことだ。ポリネシア人は基本的に、アジアから来たと考えられてるが*19、そのアジアにも、同じ風習は普通にある。たとえばタイ北部、カレン系カヨー Kayaw族の女性も図12のように、耳たぶを長く伸ばしている。この耳飾りは滑車型で、シカン(図10)と似たやり方だ。

f:id:calbalacrab:20190926203108j:plain図13 ダヤク族*20

 アジアの長耳風習と言えば、圧巻はボルネオ島インドネシア)のダヤク Dayak族(図13)だろう。写真は女性だが、男たちもやっていたらしい*21。インカの貴族あたりもダヤク族にかかれば、
「え? そんなもんで『大耳』とか言ってるんですか?」
 と、鼻で笑われそうだ。「環状の耳飾りの重さで耳たぶを伸ばす」という方式で、同じ東南アジアでも、カヨー族とはかなり違う。

 ほかには中国の海南島にも、長耳風習があったらしい。『後漢書』(5世紀)の「南蛮西南夷列伝」によれば、海南島の有力者たちは、耳に穴を開けて耳飾りを着け、肩に3寸ほど垂らしていたという*22後漢時代の「寸」は約2.304センチだから*23、3寸は7センチ弱というところだ。耳飾りを含めた長さかもしれないが、ダヤク族の例を見ると、耳自体が肩に7センチかかってても、それほどおかしくない気がする。

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図14 縄文の耳飾り*24

 あと、縄文時代の日本にも長耳風習はあった。遺跡から出てくる耳飾りは、シカンやタイと同じく滑車型だ(図14)。でかいのになると、直径9.8センチもあって*25、普通の耳たぶには当然、着けられない。

f:id:calbalacrab:20190926215513j:plain図15 仏像*26

 インドにも長耳の人がいたことは、仏像を見れば一目瞭然だ(図15)。仏像に限らず、ヒンドゥー教の神像にも図16のように、耳たぶの長いものがある。耳飾りの形からすると、ダヤク族(ボルネオ)と同じく、重さで伸ばすタイプだろう。

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図16 シヴァ神*27

 アフリカでも、ケニアのマサイ Maasai族(図17左)やエチオピアのムルシ Mursi族(同右)には長耳風習がある。どうもこの風習はあちこちに、それぞれ距離を置いて分布するようで、互いのつながりがよくわからない。比較的暑い地方に多い気がするが、これは多分、寒いところで耳の表面積を増やしたら、凍傷になりやすいからだろう。

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図17 左:マサイ族の男性/右:ムルシ族の少女*28

 考えてみれば、耳たぶは人体の中でも加工しやすく、しかも目立つ部位だ。顔のどこかに(なるべく安全に)手を加えたいと思ったら、誰でも真っ先に浮かぶのはやはり耳だろう。長耳風習はそれぞれの土地で、独自に生まれてもいっこうおかしくない。

 イースター島(及び太平洋諸島)の風習にしても、独立発生かもしれないし、東南アジアから伝わった可能性もある。南米に似たような風習があるというだけでは、文化交流の証拠としてはいかにも頼りない。「ティキ南米起源説」(第1819回)と同じく、長耳風習をめぐるヘイエルダールの説も、いまのとこ没でいいだろう。海洋冒険家としてならともかく、研究者としては、ヘイエルダールという人は、正直なかなかのポンコツだ。

*1:https://i0.wp.com/www.tuckstruck.net/wp-content/uploads/2016/04/IMG_0413Comp.jpg

*2:左:http://www.chauvet-translation.com/figures/Figure006.jpg/右:http://www.chauvet-translation.com/figures/Figure007.jpg

*3:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/41/William_Hodges_2.jpg

*4:https://philippebourgoinarttribal.files.wordpress.com/2014/07/tiki-c3aeles-marquises-mqb.jpg

*5:Catherine Chavaillon et d'Eric Olivier, Inventaire archéologique à Hiva Oa (Marquises), p. 115. ここで読める。

*6:木村重信ほか『南太平洋・南米の石造美術』大阪大学南太平洋学術調査・学術交流専門委員会 1989年 43~44、57、77ページ。

*7:左:https://4.bp.blogspot.com/_srTesFNulqc/TSUavtiqGVI/AAAAAAAAAOQ/EKBHMoYIjpQ/s1600/DSC_0302.JPG/右:http://wandermuch.com/wp-content/uploads/2014/09/tiwanaku_statue3.jpg

*8:https://lescoloriesaroundtheworld.files.wordpress.com/2015/06/img_8746.jpg

*9:トール=ヘイエルダール『海洋の人類誌』法政大学出版局 1990年 384~385、387ページ。

*10:左:https://www.metmuseum.org/toah/images/hb/hb_1974.271.7.jpg/右:http://media.puls-lifestyle.de/2014/05/orejon-Peru-Inka-Kultur-Imperiale-Phase-15.-16.-Jh.-Foto-Anatol-Dreyer-Linden-Museum-Stuttgart_4.jpg

*11:https://incaarthistory.weebly.com/uploads/1/8/3/4/18342427/2439620_orig.jpg

*12:友枝啓泰ほか編『大アンデス文明展:図録』朝日新聞大阪本社企画部 1989年 83ページと、Plug (jewellery) - Wikipedia

*13:上:http://www.latinamericanstudies.org/sican/gold-mask-4.jpg/下:http://www.pompanon.fr/photos/sd/z/l/y/4f48842dd8acd.jpg

*14:モアイは1250年ごろから造られ始めたと言われている。参考: Moai - Wikipedia

*15:古代アンデス文明展 展示内容

*16:Santarém Culture | Encyclopedia.com

*17:左:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/archive/9/9e/20150803081435%21Cultura_Santar%C3%A9m_-_Vaso_antropomorfo_representando_um_homem_sentado_01.jpg/右:https://1.bp.blogspot.com/_nhLd8MUAavo/Sl-1n9vgyzI/AAAAAAAAGpA/H2IO7cGorvc/s1600-h/com9394a_l.jpg

*18:https://i1.kknews.cc/SIG=1gikoo8/7o600084sn3rqp6r46s.jpg

*19:ポリネシア人 - Wikipedia

*20:https://i.pinimg.com/originals/3c/f6/4b/3cf64b566adad5837f27f3369de7feb4.jpg

*21:A Rare Portrait of Dayak tribe life in Borneo

*22:参考: 江川の耳 - てぃーえすのメモ帳

*23:中国各時代における単位表

*24:左:https://www.tnm.jp/uploads/fckeditor/exhibition/special/2018/20180703jomon/uid000233_201806011929189cba4edb.jpg/右:https://pds.exblog.jp/pds/1/201007/26/54/a0133354_103271.jpg

*25:史跡下布田遺跡 | 調布市

*26:https://www.burmese-art.com/assets/uploads/73876/old-wooden-throne-for-buddha-old-antique-16.jpg

*27:http://wadaphoto.jp/kikou/images3/ele25l.jpg

*28:左:https://farm9.static.flickr.com/8607/28396764001_51a07a55d5_b.jpg/右:https://farm5.static.flickr.com/4145/4993185617_2c7d59707d_b.jpg

新版・世界の七不思議 19 - ティキとウィラコチャは「他人の空似」

 前回
ポリネシア(南太平洋)のモアイやティキ像のルーツは、ティワナクに代表される南米古代文化にあるのだろう」
 というヘイエルダールの仮説を紹介した。たしかに、ティキと南米のウィラコチャ像などはそこそこ似ているし(図1~3)、ウィラコチャの別名が「コン=ティキ」なのも、ヘイエルダール説を裏づけているようにみえる。

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図1 ティキ*1
 左はヒヴァ=オア島(マルケサス諸島)、右はライヴァヴァエ島(オーストラル諸島)のティキ。

 f:id:calbalacrab:20190915220111j:plain
図2 ウィラコチャ*2
 どっちも南米・ボリビアのティワナク遺跡にある。

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図3 左:トゥクトゥリ/右:ポコティアの座像*3
 トゥクトゥリはイースター島のちょっと変わったモアイ。ポコティア遺跡はティワナクと同じく、ボリビアにある。

 でも前回も書いた通り、ティキとウィラコチャは実際は、赤の他人だった可能性が高い。今回はその根拠を挙げていこう。

① 腹に手を当てた石像は全然、珍しくない。
 ティキとウィラコチャの像を比較した場合、一番似てるのは、腹に手を当てたポーズだろう。でも第14回でも書いた通り、こういう石像は結構、どこにでもある(図4)。腕を体から離すと壊れやすいから、この姿勢が多くなるらしいと、これもそのときすでに書いた。

f:id:calbalacrab:20190919232629j:plain
図4 腹に手を当てた石像*4
 左から、日本(飛鳥)/韓国(済州島*5インドネシアスラウェシ島)。

 腕を体の横にぴったりつけてもよさそうだが、それやると正面から見たときに、胸から腹までが「余白」になる。絵を描いたり、彫刻造ったりする人なら経験があると思うけど、自分の作品にのっぺりとした空間があると、つくり手は物足りない気分になりがちだ(そのせいでつい余計なものを描き足して、失敗したりということも多い)。そこで空白を埋めるため、手を腹などに当てさせるのだろう。

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図5 ワカ=ソナとティキ*6

 ちなみに石像ではないが、ポーズ的に一番ティキに近いのは、「ワカ=ソナ Waka Sona」と呼ばれるバウレ Baoulé族(西アフリカ・コートジボワール)の祖先像だろう(図5左)。腹に手を当てているだけでなく、中腰の姿勢もよく似ている。むろんアフリカからだと、西へ行っても東へ行っても、ポリネシアまでは遠すぎるし、関係があるとは思えない*7。この程度の類似は偶然でも、充分ありうるということだ。

② ティキ像は涙を流してない。
 ティワナクのウィラコチャ像をよく見ると、目の下に帯状の模様が描いてあり(図6)、涙を表しているそうだ。ウィラコチャには嵐の神としての性格があり、この涙は、雨を象徴しているらしい*8

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図6 ウィラコチャの涙*9
 左は風化で、ちょっとわかりにくい。

 一方ティキやモアイには、涙らしきものはまったく描かれない(図7)。

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図7 ティキとモアイ*10

 ウィラコチャ像を造る上で、涙は「雨の神」としての性格を表す重要なモチーフだったはずだ。ポリネシア人が真似して造るとき、うっかり省くというのはありそうもない。

③ ティキやモアイは手ぶらである。
 ウィラコチャ像はよく見ると、両手に何か棒状か、箱状の物を持っている(図8)。これも嵐の神としてのアイテムで、雷電を表してるらしい*11。 

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図8 ウィラコチャの手*12

f:id:calbalacrab:20190920120004j:plain図9 モアイの手*13

 もちろんティキやモアイの手は、腹に添えられてるだけで、何も持ってない(図1・9)。これも涙と同じく、あっさり省略していいようなものとは思えない。

④ ティキ像は「両左手」じゃない。
 第3回でも書いたけど、ウィラコチャ像の手は両方とも、なぜか左手になっている(図8)。これもまた、ティキやモアイにはない特徴だ。
 こうしてみると、ウィラコチャの特徴的なモチーフが、ティキには何一つ見られない。ポリネシア人はウィラコチャ像を真似しておきながら、これらをことごとく無視したのか? いくらなんでも、オリジナルへのリスペクトがなさ過ぎるのではなかろうか。

⑤ 名前も完全には一致しない。
 すでに書いたけど、ウィラコチャは別名「コン=ティキ」であり、名前はティキとほぼ同じだ。ほかがどんなに似ていなくても、名前が同じというのはやはり、無視できない一致という気がする。たとえば「イエス=キリスト」と呼ばれる絵があれば、見た目が多少アレだったとしても、それはやっぱりイエスだろうと認めざるをえない。

f:id:calbalacrab:20190921013113j:plain図10 イエス像?*14

 でもこれも、よく調べてみると、完全に一致してるわけではないらしい。ウィラコチャの正式名称はアルファベットだと、"Apu Kun Tiqsi Wiraqucha*15"などと書く。"Tiqsi"は多分「ティクシ」と読むんだろうし、ティキとは微妙に違ってくる。実際ルイ=ボーダンは、
「ペルーの神の正式な名前は"Tiqsi"だから、ポリネシアの神とは、名前が違うよね」
 と指摘した*16
 もちろん似た名前ではあるのだが、何しろティキとウィラコチャにはすでに見た通り、共通する要素がほとんどない。せめて完全に同名なら、「ティキ南米起源説」も捨てがたいと思えてくるのだが、それすら微妙ということになると、これは正直致命的だ。「ティキ南米起源説」はいまのとこ、ほぼ論外とみていいだろう。

⑥ トゥクトゥリは実は、新しい。
 ヘイエルダールが自説の有力な根拠としてるのは、図3の「正座する像」(イースター島の「トゥクトゥリ」と、ポコティアの座像)だ。『アク・アク』という本の中で、ヘイエルダールはトゥクトゥリについて、次のように書いた。

……ゴンサーロと私とにとっては、これはまるで昔なじみといってもよかった。私たちは二人ともチアファナコに行ったことがあった。これはチチカカ湖のそばにある、最古の前インカ式礼拝所だ。私たちはそこでこの像に似た、ひざまずいた石の巨像を見たことがあった。それはこの像と同じ彫刻家の手で彫られたといってもよいほど形も顔も姿勢も似ていた。*17

 文中の「チアファナコ」は、もちろんティワナクのことだ。実際はポコティア遺跡から出たものだが、この座像を「ティワナク(ティアワナコ)の石像」と紹介している本は多い*18。それはともかく、
「同じ彫刻家の手で彫られたといってもよいほど形も顔も姿勢も似ていた」
 というのは、どうみてもさすがに言いすぎだ*19

f:id:calbalacrab:20190920151923j:plain図11 古代エジプトの座像*20

 そもそもあたりまえだけど、正座はごくありふれたポーズである(図11)。ティキとウィラコチャを結びつける説がせめてもう少し有力なら、図3の正座像もその補強材料にはなるだろう。が、この説がほぼ成り立たないということになると、「正座」という姿勢だけを根拠に2つの像を結びつけるのはいかにも無理筋だ。
 しかも第14回で書いた通り、トゥクトゥリは、実は新しいモアイだったらしい。最後のモアイ(その1つ)とも言われているくらいで、16~17世紀に造られたんだろう*21
 ポコティアの座像が造られた時期はよくわからないが、ティワナクと同時代か、それより古そうだ*22。となれば、どんなに遅く見積もっても、1100年ごろより前だろう(ティワナク文化は500~1100年ごろ*23)。つまりトゥクトゥリより、400年以上は古いわけで、直接的な関係があるとは思えない。
ポリネシア人が南米を訪れたとき、たまたまこの像を見て、真似をした」
 といったケースならあるかもしれないが、ポコティアは、内陸の山岳地帯にある。漂着したポリネシア人がわざわざ訪ねる可能性は、かなり低いのではなかろうか。

⑦ トゥクトゥリには蛇のモチーフがない。
 ポコティアの座像をうしろから見ると、肩のところにヘビらしきものがへばりついている(図12)。

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図12 ポコティア座像の背中*24

 どうも、頭に巻きついてる紐みたいなものが、双頭のヘビを表しているらしい。同じタイプのほかの石像も、写真を見る限り、同じデザインになっているようだ(図13)。いまとなっては、どういう意味があったか不明だが、これを造った人々にとっては、重要なモチーフなんだろう。

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図13 ポコティアの石像群*25

f:id:calbalacrab:20190920215724j:plain図14 トゥクトゥリの背中*26

 もちろんトゥクトゥリの背中には、ヘビらしきものはどこにもない(図14)。ウィラコチャとティキの場合もそうだったが、ポコティアの座像を真似して造るなら、こんな(おそらく)重要なパーツを省略したりはしないだろう。トゥクトゥリも、やはり南米古代文化とは無関係とみてよさそうだ。
 ちなみに、主婦の友社版『コンチキ号探検記』では、このトゥクトゥリについて、次のように解説されていた。

 また、(川谷注: ヘイエルダールは)一九五五年には、ポリネシアのはずれの孤島、イースター島をおとずれ、この島の巨大な石像、モアイについて興味ある調査をおこなった。そして、ティアワナコの石像とほとんどおなじ型の石像を発掘し、イースター島へも遠いむかし、南アメリカからの移住者があったことを証明した*27

 昔愛読した本ではあるが、「証明はしてねえだろ」と、いまこそ強くツッコんでおきたい。

 「腹に手を当てたティキ」も「正座したトゥクトゥリ」も、ポリネシアで独自に生まれた文化だろう。少なくとも、南アメリカの石像たちと結びつける根拠はまったくない。ヘイエルダールによれば、専門家たちは彼の説(「ティキ南米起源説」を含む)を、「素人の突飛な思いつき」として軽視した。よくある話だが、ふたを開ければ結局のところ、専門家の見立てが正しかった。

*1:左:https://farm6.staticflickr.com/5333/10247711315_f4c4ea9cef_b.jpg/右:http://yokoyokoblog.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/10/11/img_48012.jpg

*2:左:https://4.bp.blogspot.com/_srTesFNulqc/TSUavtiqGVI/AAAAAAAAAOQ/EKBHMoYIjpQ/s1600/DSC_0302.JPG/右:http://wandermuch.com/wp-content/uploads/2014/09/tiwanaku_statue3.jpg

*3:左:https://travelshopgirl.com/wp-content/uploads/2018/02/image_2018-02-11-231041-0000_1-633x1024.jpg/右:http://www.photo-andes.com/Fichiers_communs/Photos/Photos/1/Popups/20081123120257.jpg

*4:左から、https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/17/61/03/src_17610353.jpg?1281578589http://pds14.egloos.com/pds/200901/22/12/a0107712_49783a030df2e.jpghttps://i1.wp.com/www.roamindonesia.com/wp-content/uploads/2016/05/indonesia-sulawesi-palindo-megalith.jpg

*5:済州島の守護神のようなもので、「トルハルバン」という。一見ティキなどに似ているが、1754年ごろに初めて造られたと言われており、割と新しい文化である。参考: トルハルバン - Wikipedia

*6:左:https://www.arts-ethniques.com/images/Image/statue_africaine_baoule_2017-104.jpg/右:https://assets.catawiki.nl/assets/2018/7/1/7/5/b/75b897b5-56c5-4298-afcf-88468c05b992.jpg

*7:もし関係があるのなら、中間地帯にも点々と、似たような偶像が残っているだろう。

*8:Viracocha - Wikipedia

*9:左:https://wallagrams.files.wordpress.com/2012/11/tiwanaku-statue-2.jpg/右:https://southamerica2up.files.wordpress.com/2012/06/dsc06609.jpg

*10:左:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/81/Tiki_Marquesas_Louvre_MH_87-50-1.jpg/右:http://g-ecx.images-amazon.com/images/S/amazon-dp.dpreview.com/sample_galleries/sony_slta55/51886.jpg

*11:Viracocha - Wikipedia

*12:左:http://2.bp.blogspot.com/-yq2-vjQ0vm0/UQLqsY7mBqI/AAAAAAAAUJg/utBXoC1iqp4/s1600/tiwanaku+ruins8+2779.jpg/右:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Socha_Monolito_El_Fraile_-_Tiwanaku_-_panoramio.jpg

*13:https://www.bibliotecapleyades.net/arqueologia/eastern_island/images/moai2.jpg

*14:https://i.pinimg.com/736x/8d/84/35/8d8435d34911c704090161db1b0caddf--biblical-art-religious-art.jpg

*15:片仮名だと、「アプ=コン=ティクシ=ウィラコチャ」とでもするべきか?

*16:Louis Baudin, Daily Life of the Incas, Dover Publications, 2003, p. 21.

*17:ヘイエルダール『アク・アク(上)』光文社 1958年 134ページ。

*18:たとえば、石田英一郎ほか編『図説世界文化史大系(11)アメリカ大陸』角川書店 1959年 55ページや、木村重信ほか『南太平洋・南米の石造美術』大阪大学南太平洋学術調査・学術交流専門委員会 1989年 口絵26。

*19:ヘイエルダールの本にはこういうとき、なぜか写真が載っていない。

*20:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/22/-1725_Sobekhotep_V_anagoria.JPG/229px--1725_Sobekhotep_V_anagoria.JPG

*21:モアイ製作が終わったのは1500年ごろとも、1680年ごろとも言われている。Moai - Wikipediaと、野村哲也イースター島を行く』中央公論新社 2015年 60ページ。

*22:ポコティア文化は、ティワナク文明に先行する「プカラ文化」の流れをくむと考えられている。佐藤吉文「先スペイン期ティワナク社会におけるヘビのシンボリズムとイデオロギー」『共生の文化研究』7号 2012年 144ページ。ここで読める。

*23:古代アンデス文明展 展示内容

*24:http://2.bp.blogspot.com/-0PdlxCndC18/TWrngZnQAJI/AAAAAAAAHAI/RvhHMg4FjO0/s400/makethumb400.jpg

*25:http://www.mupreva.es/dedalo/media/pdf/publicaciones/standar/mupreva194_mupreva153_499.pdf

*26:https://blog-imgs-93.fc2.com/p/a/i/paihenga/ranoraraku352s.jpg

*27:ハイエルダール『コンチキ号探検記』主婦の友社 1979年 108ページ。太字強調は引用者による。この部分、ヘイエルダールが書いたのを訳したものとも思えないし、「本文執筆」の水野耳人氏による解説か?

新版・世界の七不思議 18 - 南アメリカと「ティキ」の像

 イースター島(ラパヌイ)のモアイ像は、南太平洋(ポリネシア)に広く分布する「ティキ」という祖先像(図1)の一種だろう、という話は第14回で書いた。このティキ、またはモアイについて、「南アメリカの古代文化にルーツがあるのでは?」という説が結構、昔からある。今回はこの説を検討してみたい。

f:id:calbalacrab:20190318213419j:plain図1 マルケサスのティキ*1

 ティキ(モアイ)の南米起源説を唱えたのは、ノルウェーの人類学者で探検家のトール=ヘイエルダール*2(図2。1914~2002年)だ。ヘイエルダールポリネシア人そのもののルーツについても、「(少なくとも一部は)アジアじゃなくて、南米から来た」と説いていたらしい。でもこれは、いまでは遺伝子調査とかで、否定的な見方が有力だ*3

f:id:calbalacrab:20190319120709j:plain図2 ヘイエルダール*4

 ともあれ、南米原産のサツマイモが、ポリネシアで昔から栽培されてきたことは間違いない。島によっては、サツマイモは「クマラ kumala」と呼ばれてて、南米・ケチュア語の「クマル k'umar」(=サツマイモ)によく似ている。こうした事実から、
「少なくとも、ポリネシア人と南米人との間に、なんらかの接触はあったんじゃないの?(移住や植民までは行かなくても)」
 というとこまでは、広く認められているらしい*5

f:id:calbalacrab:20190915165046j:plain図3 サツマイモ*6

 でもここで問題にしたいのはサツマイモじゃなくて、
「ティキ像のルーツが南米にあったかどうか(その可能性がどれくらいあるか)」
 ということだ。ポリネシア人はサツマイモとともに、石像文化も南米から輸入しただろうか?

 ちなみにこの「ティキ南米起源説」は、ヘイエルダールの『コン・ティキ号探検記』*7という本の中に出てくる。ヘイエルダールの説は正確に言うと、
「南米先住民の一部がポリネシアへ移住し、このときティキ文化も伝わった」
 というものだった。彼がこの説を唱えたとき、
南アメリカには、太平洋を渡れる船も航海技術もないから、無理じゃね?」
 と、専門家に反対されたらしい。するとヘイエルダールは、当時のイカダでも太平洋を渡れることを証明するために、実際に航海してみせたんだから、見上げた根性だ。

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図4 コン=ティキ号
*8

 「コン=ティキ号」と名づけられたそのイカダ(図4)は、1947年4月28日にペルーのカヤオ港を出て、8月7日に太平洋のほぼど真ん中、トゥアモトゥ諸島へたどり着いた*9。その記録が『コン・ティキ号探検記』で、昔は子供向け読み物の定番だったんだが、いまも読まれているだろうか?

 でもこの航海で、みんなヘイエルダール説に納得したかと言えば、そうでもないらしい。例のサツマイモにしても、南米人がポリネシアに伝えたわけじゃなく、逆にポリネシア人が南米から持ち帰ったと考えられている*10。たしかに南米より、ポリネシアの航海術の方が優れていたわけで、そっちの可能性が高そうだ。そもそもコン=ティキ号は、自力でフンボルト海流*11を越えることができず、沖合80キロほどのところまで、ペルー海軍の船で引っぱってもらっている*12。少なくとも、南米から直接船出した場合、ポリネシアへ行くのは相当難しいことが、逆に証明されたとみることもできる。

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図5 ウィラコチャ神*13
 左は「ポンセ Ponce」、右は「フライレ Fraile」という愛称で呼ばれる。

 それはともかく、ティキ像のルーツとしてヘイエルダールが目をつけたのは、主にティワナク遺跡(ボリビア第3回参照)のウィラコチャ像(図5)だった。腹に手を当ててるところは、たしかにティキ像に似てなくもない。それに何より、このウィラコチャという神は、別名「コン=ティキ=ウィラコチャ」、「アプ=コン=ティキ=ウィラ=コチャ」などとも呼ばれていた*14(コン=ティキ号の名もこれにちなむ)。「ティキ」という言葉が入っているあたり、名前も太平洋のティキ像に一致してるとみていいだろう。

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図6 左:トゥクトゥリ/右:ポコティアの座像*15
 写真じゃわかりにくいが、トゥクトゥリも、両手を膝に乗せているらしい*16

 なお、ヘイエルダールは、「トゥクトゥリ」(図6左)という変わったモアイ像を発見したことでも知られている。トゥクトゥリは正座しているが、これと同じ姿勢の石像(図6右)も、ティワナクの南2キロほどにある「ポコティア Pokotia」という遺跡*17で見つかった。

 こうしてみると、そこそこ有力に思える「ティキ南米起源説」だが、学界じゃさっぱり認められてない。昔観たTVの特番でも、ティキやモアイとウィラコチャ(コン=ティキ)の像が比較され、「全然似てない」と評価されていた。そのとき使われた「3次元計測」による図解が、図7だ。 

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図7 モアイ・ティキ・ウィラコチャ像の3次元計測*18
 左から、モアイ像・オーストラル諸島のティキ像・ティワナク遺跡のウィラコチャ像。

 簡単に言えば、
「太平洋のモアイやティキが曲面で構成されるのに対し、南米の石像は直線的で、四角柱に近い。基本的な造形がまったく違う」
 という趣旨だった。一見もっともらしいが、「ティキ南米起源説」を否定する根拠としては正直、薄弱だと思う。「曲線的か、直線的か」というのは要するに、彫刻技術の伝統とか、造形センスの違いが出やすい部分だろう。特に宗教的な偶像のルーツを考える場合、大事なのは「どう造ったか」(技術やセンス)じゃなくて、「何を表そうとしたか」(モチーフ)の方だ。これはたとえば、イースター島カトリック教会にある「聖母子像」(図8)を見るとわかりやすい。 

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図8 イースター島の聖母子像*19

 間違いなくキリスト教の偶像なんだけど、多分現地の彫刻家が造ったせいだろう。顔はほとんどモアイ像だし、その頭上にはごていねいに、キリスト教とはまったく関係ない「鳥人」(図9)の像*20まで乗っている(イースター島鳥人信仰については、第16回参照)。作風だけなら限りなく、「モアイ=カバカバ」(図10)に代表されるイースター島の伝統彫刻に近い。

f:id:calbalacrab:20190917001459j:plain図9 鳥人*21

f:id:calbalacrab:20190917002435j:plain図10 モアイ=カバカバ*22

 このように、聖母マリアであれ何であれ、イースター島民の手にかかれば、イースター島風になるのはあたりまえだ。ウィラコチャ(コン=ティキ)の像をポリネシア人が造るときも、やっぱり全体の造形は、ポリネシア風になるだろう。問題は、「ウィラコチャを表そうとした」形跡がどれくらいあるかということで、それにくらべたら、作風の違いとかは割とどうでもいい。そう考えると、わざわざ3次元計測で像の輪郭だけとり出しても、大して役立つとは思えない。

 ここまでなんとなく、「ティキ南米起源説」に肩入れした感じで書いてきた。じゃ、この仮説に賛成なのかと言えば、正直なところそうでもない。実はティキ像とウィラコチャ像には、なんの関係もなかろうと思っているのだが、その根拠は次回、書くことにしよう。

*1:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/81/Tiki_Marquesas_Louvre_MH_87-50-1.jpg

*2:昔は、「ハイエルダール」と書いてある本も多かったと思う。

*3:トール・ヘイエルダール - Wikipedia

*4:https://vadebarcos.files.wordpress.com/2014/10/thor-heyerdahl.jpg

*5:Pre-Columbian trans-oceanic contact theories - Wikipedia

*6:http://blog.lesgachesexplorentlemonde.fr/wp-content/uploads/2017/09/Kumara-Red-Gold-57648.jpg

*7:『コンチキ号漂流記』とか、いろんな邦題がある。

*8:https://cdn.britannica.com/33/179033-050-9AB32FC2/Kon-Tiki-Pacific-Ocean-1947.jpg

*9:コンティキ号 - Wikipedia

*10:トール・ヘイエルダール - Wikipedia

*11:南アメリカ大陸西岸を、南から北へ流れている。

*12:コンティキ号 - Wikipedia

*13:左:https://4.bp.blogspot.com/_srTesFNulqc/TSUavtiqGVI/AAAAAAAAAOQ/EKBHMoYIjpQ/s1600/DSC_0302.JPG/右:http://wandermuch.com/wp-content/uploads/2014/09/tiwanaku_statue3.jpg

*14:ビラコチャ - Wikipedia

*15:左:https://travelshopgirl.com/wp-content/uploads/2018/02/image_2018-02-11-231041-0000_1-633x1024.jpg/右:http://www.photo-andes.com/Fichiers_communs/Photos/Photos/1/Popups/20081123120257.jpg

*16:木村重信ほか『南太平洋・南米の石造美術』大阪大学南太平洋学術調査・学術交流専門委員会 1989年 77ページ。

*17:ポコティア遺跡については、佐藤吉文「先スペイン期ティワナク社会におけるヘビのシンボリズムとイデオロギー」(『共生の文化研究』7号 2012年)、144ページ参照。ここで読める。ティワナクから6キロとか、11キロとか書いてるサイトもあって、遺跡の場所はどうもはっきりしない。よほどマイナーな遺跡なんだろうか?

*18:木村重信ほか『南太平洋・南米の石造美術』大阪大学南太平洋学術調査・学術交流専門委員会 1989年 121ページ。

*19:左:http://4.bp.blogspot.com/-xluV8XlATCA/UheEQGnrF0I/AAAAAAAAA-I/G-pOsrf_BgI/s1600/DSC01198.JPG/右:https://islasdelpacifico.files.wordpress.com/2010/12/maria_de_rapa_nui.jpg

*20:鳥人と言うより鳥そのものだが、これも鳥人と呼ばれている。

*21:http://www.bradshawfoundation.com/easter/birdman/b2b.jpg

*22:http://www.karsten-rau.de/grafik/rapanui/moai_kavakava1.jpg