新版・世界の七不思議 17 - イースター島「大戦争」
「モアイを掘り下げてみる」シリーズの3回目は、「③ 戦争はあったの、なかったの?」だ。第14回で書いた通り、伝説によればイースター島(ラパヌイ)では、かつて大きな戦争があった。1722年まではアフ(台座)に立ってたモアイ像もこの戦争で、すべて倒されたと言われている。
でもこの話、いまではかなり疑問視されていることも書いた。大量殺人の形跡や、殺傷力の高い武器などが、イースター島の遺跡から出てこないからだ(ここ参照)。
図1 ポイケの戦い(想像図)*1
たとえば伝説では、「ポイケ・ディッチ」と呼ばれる溝で多くの人が焼き殺されたことになっている。でもこの溝を発掘調査しても、人骨はまったく見つからない。考古学者たちはこの話を、眉唾とにらんでいるらしい*2。
図2 ポイケ・ディッチ(真ん中の黒い線)*3
ともあれ、イースター島の村同士(そのリーダー同士)に、かなり強烈なライバル意識があったのはたしかだ。モアイの巨大化もそれが原因だろうと前回で書いたが、巨大化競争にはおのずと限界がある。いくら有力者でも、巨大なモアイの製作費や、運んで立てるための手間賃を毎回出すのは痛手だろう。この手の見栄張り競争は、「どっちが先に音を上げるか」というチキンレースのようなものだ。
「いっそ戦争でライバルを殺すか、降参させれば、こんな競争はしなくて済む。」
いよいよとなれば、そんな考え方をする輩も出るだろう。近代でも、軍拡競争で財政がパンクしそうになり、やぶれかぶれで戦争突入、というのはよくあるパターンだ。
でもこの場合、モアイの製作中止と戦争は、ほぼ同時期に起こるだろう。モアイ競争の行きづまりが、戦争の引き鉄になったはずだからだ。でも実際は、モアイが倒れた(倒された?)のは、モアイ造りが止まってからかなり後のことだったらしい。
図3 倒れているモアイ*4
モアイが造られなくなった年代については諸説あるが、遅く見積もる人でも、だいたい1680年ごろとされている*5。約40年後の1722年、オランダのロッヘフェーンがイースター島を訪れたときは、モアイはまだ倒れていなかった。それから100年くらいの間に、バタバタと倒れていったらしい(必ずしも抗争とかじゃなく、地震が原因かもしれない。 ここ参照 )。
モアイ造りが止まってから、40年後にモアイが倒れるというのは、時間が空きすぎだ。こうなると、「モアイの巨大化競争から、戦争に発展」という線もあんまりありそうにない。少なくとも、「戦争でモアイが倒された」という伝説に乗るなら、そういうことになる。
でもやはり、激しい戦争を語る伝説が記録されてるのは事実であり、「ただのつくり話」で片づけるのもちょっと気が引ける。そこで一応、伝説が生まれた背景について、2通りの仮説を立ててみた。第1の仮説は、
「『戦争の話が聞きたいんだろうな』と察した島民が、ある程度話を合わせてくれた」
というものだ。
イースター島を訪れた学者たちには多かれ少なかれ、島の歴史について、先入観があったのではないか? 何しろさほど大きくもない島に、巨大な石像がゴロゴロしてる上、造りかけで止まった像も多い。
「ここにはかつて、よほど高度な文明があり、何かのきっかけで突然滅んだんだろう。」
そんな想像をかき立てるには充分だ。そして「何かのきっかけ」は自然災害か、でなければ戦争とみるのが普通だろう。学者たちの多くは程度の差こそあれ、戦争の話を聞きたがっていたんじゃなかろうか。
「だからって、わざわざ調子合わせて戦争の話をつくったり(または大幅に誇張したり)はしないだろう」
と思うかもしれない。でもそれは、取材する側の理屈である。取材される側にしてみれば、相手は遠路はるばるやって来てくれた「お客さん」だ。
「期待通りの話を聞いて、満足して帰ってもらいたい」
と、思うのは普通のことである。
もちろん学術調査だから、正確なところを言ってもらわないと、本当は困る。でもそんなことは、よほど念入りに説明しない限り、取材される側にはわからない。これは理解力の不足とかじゃなく、文化の問題だ。「学術調査」という文化をもたない人間は、まさか相手が、
「どんなに期待外れな話でもいいから、正確なことを言ってもらいたい」
などと、思ってるとは夢にも思わない*6。
図4 イエティの想像図*7
これは実は、文化人類学的な調査では、ちょいちょい問題になるところである。たとえばヒマラヤの雪男・「イエティ」は、もともとは姿のはっきりしない精霊みたいなものだったらしい。ある調査隊が安直に、「こういうの知らない?」と想像図(図4)を見せたもんだから、「サルみたいな生き物」というイメージが、逆に定着してしまったのだ*8。
こういう調査では、相手に先入観を与えないように、調査する側が細心の注意を払う必要がある。でなければ、調査対象の何気ないサービス精神で、情報が歪んでしまうのだ。イースター島でも過去の歴史をめぐり、似たようなことがあったのかもしれない。
もう1つの仮説は、
「そもそも戦争のイメージそのものが、喰い違ってた」
というものだ。つまり、イースター島民の言う「戦争」と、近代ヨーロッパ人がイメージするそれが、全然違ったという見方である。
現代人が戦争と聞くと、
「国と国とが手段を選ばずにとことん殺し合う(または一方が他方を、徹底的に殺戮する)」
という地獄絵図を連想しがちである。でもこれは、近代以降の戦争――特に第1次世界大戦(1914~18年)に始まる「国家総力戦」のイメージだ。それ以前の戦争ではそこまでのことは、あまり起こらなかったらしい。ないわけじゃないが、少なかったのだ。
そもそも、いくら命令したところで、人と人とを殺し合わせるのは大変なことだ。特に古代の戦争では、何しろ相手との距離が近い。「敵」の顔がはっきり見える状態で殺し合うわけで、その心理的抵抗は、それはもうえげつないものだ。
だから昔の戦争ほど、ちょっと旗色が悪くなると、兵士たちはとっとと逃げていた。「〇〇の決戦」とか、大げさな名前がついてても、実際の死者は数名ということもよくあるらしい*10。時代が下るとだんだん逃げなくなるが、それは「忠義」とか「〇〇国軍兵士の誇り」とか「愛国心」とかを、長い時間をかけて刷り込んできた「成果」である*11。
図6 アメリカン・フットボール*12
※ どう見ても普通に殴ってるが。
たとえば古代ギリシアの都市間戦争も、あまり人が死なないものだったらしい。古典学者のアーサー=ノックは、
「アメフトの試合よりは、ちょっとだけ危険だったんじゃね?」
と言っていたそうだが*13、これもやっぱり兵士たちが、簡単に逃げたからだろう。戦争を指揮する人らはそれじゃ困るから、自軍の兵士を逃がさないために、いろいろと工夫を凝らしてきた。
古代ギリシアの有名な「ファランクス」(密集方陣。図7)も一つには、味方を逃がさないための陣形だったらしい*15。何しろ密集してるから、一番外側の兵士以外は逃げ場がない。しかもファランクスでは、敵と直接ぶつかるのは最前列だけだ。後列は遠慮なく前進してくるから、前列は一度接敵すると、逃げようったって逃げられない。なかなかにえぐい戦法だが、兵士たちを殺し合わせるのは、それだけ難しいということでもある。
要するに、イースター島民が実際に、
「そりゃあもうひどい戦争だった」
と言ってたとしても、近代ヨーロッパ人がイメージするような戦争とは、全然違うものだった可能性があるということだ。島民的には、重軽傷者が10人も出れば、「滅多にないような大惨事」だったのかもしれない*16。脳内のイメージを直で見せ合うわけにはいかないし、このギャップにはなかなか気づけない。
長年信じられてきた「イースター島大戦争」的なものは、多分実際にはなかった。にもかかわらず、それらしい伝説が生まれた原因は、上の2つのうちのどれかだろう。または両方の要素があいまって、話がさらにおかしな方向へ発展したのかもしれない。
*1:https://www.christies.com/lotfinderimages/d56361/d5636165a.jpg
*2:後藤明「モアイの『危機語り』」(『南山大学人類学研究所論集』3号 2016年)29ページ。ここで読める。
*3:https://c1.staticflickr.com/1/118/371201986_e253383d89_b.jpg
*4:https://detalhesdeviagens.files.wordpress.com/2017/07/ahu-vaihu-moai-ilha-de-pascoa-roteiro-o-que-fazer-pontos-turisticos-relatos-viagem.jpg?w=723
*5:野村哲也『イースター島を行く』中央公論新社 2015年 60ページ。
*6:藤子・F・不二雄の「ニューイヤー星調査行」という短編では、このあたりの事情がわかりやすく描かれている。
*7:http://blog-imgs-53.fc2.com/r/u/s/russianemperor/20120718101244cd5.jpg
*9:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/c2/8772b71f3d6e758a4df303b702454cd7.jpg
*10:『天空の城ラピュタ GUIDE BOOK』徳間書店 1986年 227ページと、『加藤周一著作集(24)歴史としての二〇世紀』平凡社 1997年 45~46ページ。
*11:加えて現代の軍隊には、兵士の人間性を破壊する仕掛けがいろいろある。参考: 「訓練で女性蔑視植え付け」
*12:http://blogs.e-rockford.com/applesauce/files/2013/04/fbc-notes-1-3-art-g0dl1mb9-1sugar-bowl-football-jpeg-0f040-jpg.jpg
*13:Dave Grossman, On Killing, Back Bay Books, 1996, p. 12. なおこの本は、『「人殺し」の心理学』(原書房 1998年)、または『戦争における「人殺し」の心理学』(筑摩書房 2004年)として邦訳されている。
*14:https://domainsofthechosen.files.wordpress.com/2016/08/the-macedonian-phalanx.png?w=640
*15:Edited by John A. Hall and Siniša Malešević, Nationalism and War,Cambridge University Press, 2013, p. 32.
*16:一応補足しておくと、昔の戦争は、いまほど危険じゃない分、起こりやすい。戦争の回数自体は多かっただろう。
新版・世界の七不思議 16 - モアイが巨大化した理由
「① モアイは最初からでかかったのか?」「② そもそもモアイは、なぜ巨大化した?」「③ 戦争はあったの、なかったの?」のうち、①の話は前回で終わった。今回は②、モアイが巨大化した理由について考えてみよう。
前回の内容を踏まえて、まず1つ考えられるのは、「盗難防止のために、大きくした」という可能性だ。イースター島には、よその村のモアイを盗んでくるという風習があったらしい。そこで盗まれないように、なるべく大きいのを造るようになってもおかしくない。実際、前回とり上げた南九州の「タノカンサァ」(図1)も、同じ理由で大きく造られる場合があったと言われている*1。
図1 タノカンサァ*2
でもそれだけの理由なら、何もここまで大きくする必要はないという気がする。モアイはごく標準的なものでも4メートルくらいはあって、重さはだいたい12.5トン。特にでかいのになると約10メートル、82トンというのもあるそうだ*3(図2)。盗難を防ぐだけなら2、3メートルもあれば、お釣りがくるのではなかろうか? 動かすだけでも大騒ぎだろうし、夜中にこっそりというわけにはいかなくなる。
図2 モアイ=パロ*4
※ アフに立っていた中では、最大のモアイ。残念ながら倒れている。
これはやっぱりどちらかと言えば、
「村同士(氏族同士)の競争意識のせいで、でかくなった」
という線の方がありそうだ。イースター島には多くの村があり、村同士(特にそのリーダー同士)は、ライバル関係にあったらしい。モアイより少し時代は下るが*5、「鳥人儀礼」と呼ばれるお祭も、村対抗で競い合う運動会みたいなものだった*6。こういう環境では、「あっちの村では2メートルのモアイを立てたらしいぞ」「何!? ではうちは3メートルだ!」という感じで、どんどんでかくなってもおかしくない。
そもそも有力者というのは洋の東西を問わず、「自分の偉大さを目に見える形で記念したい」という気持ちになりがちなものらしい。日本の古墳にしても、そのためにでっかく造られたんだろう。インド東部から東南アジアに多い巨石を立てるお祭にも、似たような心理がみてとれる。わかりやすい例として、インド・ナガランド州の祭をとり上げてみよう。
図5 ナガランドの巨石記念物*9
このあたりの政治は「長老」による合議制で、長老になりたい男は少なくとも4回、多くの人々を招いて大盤振る舞いをしなくてはならない。その4回目の宴会では、参加した男たちが力を合わせ、巨石を立てて記念にする*10。大勢の人を招待すれば、それだけ大きな石を立てることができるわけだから、石がでかければでかいほど、宴会を主催した人の「気前の良さ」の証拠になる。しかも石だから、その証拠は永遠に残るというわけだ。
もちろんただの巨石だし、のちに伝承が途絶えれば、どこの誰を記念したものかは不明になる。文字があれば、有力者をほめたたえる碑文を彫るという手もあり(図6)、その方が効果的だろう(読める人が少ないという問題はあるが)。でも文字がない社会では、「石の大きさ」という物理的な事実により、自分の功績を記念するしかないのである。
図6 ベヒストゥン碑文(イラン)*11
※ アケメネス朝ペルシアの王・ダレイオス1世の戦勝を記念した碑文。「余はダーラヤワウ(ダレイオス)、偉大なる王、諸王の王……」とかなんとか書いてある*12。
モアイがでかくなったのも、これと似たような理由だったのではないか? 「俺は隣の村のリーダーより偉いのだ!」ということを見せつけるには、ライバルよりでっかいモアイを造ればいい。巨大なモアイを運んで立てるには、それだけ多くの人が参加してくれないと無理だ。もちろんただでは働かないだろうし、ナガランドの場合と同じように、大盤振る舞いが必要だったろう*13。モアイの巨大さが、そのままリーダーの「人気」とか、「気前の良さ」の証になるわけだ*14。
ただこの場合、「ほかの島のティキ像は、なぜモアイのように巨大化しなかったのか?」という問題が残る。南太平洋のほかの島々にも、氏族間の競争はあっただろうし、ティキ像を造る風習もある。その中で、イースター島のモアイだけが野放図に巨大化したのは不思議である。
いろんな偶然が積み重なった結果だと思うが、イースター島が絶海の孤島で、ほかの島との交流がほとんどなかったらしいことも*15、理由の1つではありそうだ。不毛な(多分)競争が過熱した場合、これを冷ますには「外部の目」が、1つのきっかけになることが多い。「よその島じゃ、こんなことしてないらしいぜ?」と誰かが言い出せば、多少頭に血が上っていても、ふと冷静になったりするものだ。
でもイースター島にはよそ者が滅多に現れないし、当然情報の行き来もない。島の中が世界のすべてだと、「さすがにこのモアイ、でかすぎない?」「ここまでやっても、意味なくない?」などと、われに返る機会が少なくなる。リーダー同士の意地の張り合いを止めるには、「もうええわ」という第三者のツッコミが効果的であり、それがまったく入らない環境ではなかなかやめられない。ある意味で、閉鎖空間の怖いとこだ。
図7 最大のモアイ*16
図8 細長いモアイ*17
※ これもでかい。20メートル以上。
でもやはり、イースター島の有力者たちも、どこかでわれに返りはしたらしい。17世紀ごろからモアイは造られなくなり、ラノ=ララクにあるモアイたちも、アフへ運ばれることなく放置された。「エル=ヒガンテ」(巨人)と呼ばれる最大級のモアイ(図7。全長21メートル)も、造りかけのままだ。
モアイのでかさを競い続けることに、さすがに無理を感じたのだろうか。それとも誰かがリーダーたちに、「もうええわ!」と言ってのけたのか? いまとなっては知りようもないが、やはり気になって仕方ない。
*1:http://www.e-kanoya.net/koho/2017/no273/10_11p.pdf
*2:https://scontent-lga3-1.cdninstagram.com/vp/c6eef9d3e6db3ae13283971e445b5c9d/5D8F790E/t51.2885-15/e35/52034001_606313569795153_496966509177891620_n.jpg?_nc_ht=scontent-lga3-1.cdninstagram.com
*4:左: https://jetsettingfools.com/wp-content/uploads/2014/06/IMG_1064-1024x683.jpg/右: http://4.bp.blogspot.com/_sD9yQTE5QZQ/TDBxiX7A1UI/AAAAAAAAIfs/Rw2hoOf3UjY/s1600/MOAI+PARO.jpg
*5:最後のモアイ(その1つ)とみられる「ホア=ハカナナイア Hoa Hakananai'a」の背中には、鳥人が彫刻されている(図4)。モアイの時代と鳥人信仰の時代は、ある程度かぶっていたらしい。
*7:http://4.bp.blogspot.com/-xa9zB5FwQi4/T67CZCnnjOI/AAAAAAAAi2I/oC23tlWdgKg/s1600/DSC0434620120512150305.gif
*8:https://imaginaisladepascua.com/wp-content/uploads/2016/07/moai-hoa-hakananaia-el-amigo-robado-grabados-unicos-fb.jpg
*9:http://www.gshdl.uni-kiel.de/wp-content/uploads/2016/06/2016_Nagaland.jpg
*10:森田勇造『写真で見るアジアの少数民族(3)南アジア編』三和書籍 2012年 6~10ページ。
*11:https://www.awesomestories.com/images/user/570c333a59.jpg
*13:このあたり、サービス残業とかしてしまう現代人よりも、昔の人の方が合理的だ。
*14:「気前の良さ」を非常に重視する考え方は、北アメリカ大陸北西海岸の「ポトラッチ」という祭にもみてとれる。
*15:ASIOS『謎解き 超常現象(4)』彩図社 2015年 248ページ。
*16:http://www.peterhakenjos.de/Wege-Imagenes/23-Rano-Raraku9-groesster.jpg
*17:https://populerakim.com/wp-content/uploads/2017/06/Dunyanin-En-Gizemli-Adasi-Paskalya-5-e1497093224120.jpg
新版・世界の七不思議 15 - ちょっと小さいモアイたち
前回は「モアイ・基礎知識編」的なもので、実はここからが本番だ。前の記事も結構長かったが、何しろモアイは謎が深いので、語りたいことはまだまだある。主なテーマは、「① モアイは最初からでかかったのか?」「② そもそもモアイは、なぜ巨大化した?」「③ 戦争はあったの、なかったの?」の3つで行く予定だ。ほかに、「④ 南米古代文化との関係は?」とかも、書けたら書こうという気でいる。今回はその①、モアイ成長期の話をしてみよう。
図1 マルケサスのティキ*1
図2 トゥクトゥリ*2
前回、
「モアイのルーツは、南太平洋によくある『ティキ』という祖先像(図1)だろう」
という説を紹介した。ただしモアイの細長い顔は、よその島々のティキたちにあまり似ていない。その中で、「トゥクトゥリ」(図2)というちょっと変わったモアイだけは、造形的にティキに近いから、古いタイプだろうと思われてた。でもこれは、実は最新型のモアイだったらしいと、これも前回書いた通りである。
図3 四角い顔のモアイ*3
※ 島の北東岸、アナケナ湾に面したアフ=アトゥレ=フキ Ahu Ature Hukiにある。
前回紹介した中では、図3のような四角い顔のモアイが、比較的古いタイプらしい*4。でもこのモアイも、高さ6メートルくらいはあって、大きさはティキとはまるで違う。ティキは一番でかいのでも、2.67メートルくらいなのだ(図4)。
図4 最大のティキ*5
※ ヒバ=オア島(マルケサス諸島)のティキで、「タカイイ Takaii」と呼ばれる。
もちろん、ティキの文化が初めてイースター島(ラパヌイ)へ伝わり、モアイが造られ出したころは、こんなにでかくはなかったと思う。タヒチやマルケサスのティキみたいな小さいのから始まって、だんだんと巨大化したんだろう。でもその割に、でかくなる前の段階のモアイ――「成長途中のモアイ」はあんまり見たことない。多分TVや写真集の撮影スタッフは、見栄えのいい巨大モアイを撮るのに夢中で、小さいのにまで目を向ける暇はないのだろう。ともあれ、全然映像がないわけじゃないから、見つけたのをいくつか紹介しておこう。
図5 ポイケ半島のモアイ*6
まずイースター島の東端、ポイケ半島には、やけに可愛らしい(サイズ的に)モアイがいくつかあるらしい(図5)。右のは約70センチしかないそうで、左のも同じくらいだろう。大きさからするといかにも古そうだが、問題は風化が激しくて、顔がはっきりしないことだ。これじゃデザインを比較して、普通のモアイ像とどっちが古いのか、たしかめることは難しい。
「そんなもの、年代測定でわかるんじゃないの?」
と思われそうだけど、いまのとこ、石像自体の年代を科学的に(正確に言うと、「自然科学的な手法で」)割り出す方法はない。有名な「放射性炭素年代測定法」とかは、有機物にしか使えないのである。てなわけで、このミニモアイたちが本当に古いタイプかどうか、厳密にはちょっとわからない。
デザイン的にたしかに古そうなのは、ラノ=ララク火山にあるという図6の小さなモアイ(?)である。『イースター島の謎』(日本テレビ放送網)という本に写真が載ってただけで、くわしいことはさっぱりわからない。でもその小ささ(正確なサイズは載ってない)と目のデザインから、巨大化が始まる前の古いモアイとみて間違いないと思う。
モアイは普通、目が「穴」として表現されていて、この点もティキ(図1や4)との違いである。図6のモアイは目が「凸型」で、他の島々のティキに近い。これがおそらく、最初期のモアイの1つだろう(サンティアゴのチリ国立自然史博物館にも、これに近いタイプのモアイがいくつかある。図7)。
図7 その他のミニモアイ*8
図8 モアイ=アロ=コレウ*9
図9 完成期のモアイ*10
図6・7ほどではないが、図8のモアイもかなり古そうだ。イースター島の北岸にあって、「モアイ=アロ=コレウ Moai Aro Koreu」と呼ばれている。170センチくらいはあるそうで*11、これがもし人間ならそんなに小さくない(そりゃそうだ)。でもモアイとしては、これでも極端に小柄な方である。
目はすでに「凹型」になってるが、全体的な造形の雑さ(よく言えば「素朴さ」)を見ると、これも間違いなく古かろう。特に顔や手のデザインは、たとえば図9のような巨大モアイたちにくらべたら、まだまだ洗練されてないと言うか、未完成な感じがある。
ネットで画像を見ただけだが、図10の壊れたモアイたちも、いかにも古そうなデザインだ。特に前列右側の2つは、横幅の広い顔とか、腹を抱えた手の表現(その稚拙さ)からみて、間違いなく初期のモアイだろう。
ちなみにこれ、島の南東岸に「トンガリキ」という場所があって、そこのアフ(モアイが乗っている台座。図11参照)が壊れたとき、その中から出てきたものだそうだ。つまりどうやらイースター島ではアフを造るとき、古いモアイを石材として再利用していたらしい。初期のモアイをあまり見かけないのは、単に「誰も写真を撮らないから」というだけじゃなく、再利用されてしまったせいなのかもしれない。
図11 「アフ」上のモアイ*13
にしてもモアイと言えば、大切な祖先の像だろう。それをアフの石材にしたりして、罰が当たるんじゃないかとか、少しは心配しないもんだろうか?
この件でヒントになりそうなのは、後藤明氏の『ハワイ・南太平洋の神話』(中央公論社)で紹介されていたイースター島の伝説だ。それによれば、イースター島にはその昔、よその村のモアイを盗んでくる風習があったらしい*14。
標準的なサイズのモアイ(12.5トンもある*15)を盗めと言っても無理だろうし、これは多分、小さい方のモアイの話だろう。石材として使われたのももしかしたら、よそから盗ってきたモアイだったのではないか? それなら待遇が雑なのも、ある程度納得いく気がする。
図13 タノカンサァ*17
ちなみに日本でも、たとえば長野県には、道祖神(図12。民俗神の一種)の石像を盗んできて祀る風習があった*18。南九州にも、「タノカンサァ」(田の神様。図13)の石像を盗む風習があり、「タノカンサァオットイ」(「おっとる」=盗む)とか呼ばれていたらしい*19。
日本(その各地)とイースター島に共通する「神の石像を盗みだす」という行動には、どのような意味があったのか? その意味もやっぱり同じなのか、それとも場所により違うのか? いまのとこわからないけど、ぜひ知りたい。
*1:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/81/Tiki_Marquesas_Louvre_MH_87-50-1.jpg
*2:左: https://travelshopgirl.com/wp-content/uploads/2018/02/image_2018-02-11-231041-0000_1-633x1024.jpg/右: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Moai_Easter_Island_geod0095.jpg
*3:https://niesprzedawajcieswychmarzen.files.wordpress.com/2010/12/12-ahu-ature-huki-pierwsze-moai-na-wyspie-podnisione-przez-thora-heyerdahla-w-1958-roku.jpg
*4:野村哲也『イースター島を行く』中央公論新社 2015年 12ページ。
*5:http://www.greenpanther.org/images/Hivaoa_2.JPG
*6:左: https://imaginaisladepascua.com/wp-content/uploads/2017/09/Pequeño-moai-en-Maunga-Parehe-Poike-Isla-de-Pascua.jpg/右: http://www.eisp.org/wp/wp-content/uploads/a06_ei89_2376.jpg
*7:小松左京監修『イースター島の謎』日本テレビ放送網株式会社 1979年 60ページ。
*8:小松左京監修『イースター島の謎』日本テレビ放送網株式会社 1979年 140ページ。
*9:https://www.easterisland.travel/images/media/images/archaeology/basaltic-moai-north-coast.jpg
*10:https://www.bibliotecapleyades.net/arqueologia/eastern_island/images/moai2.jpg
*11:野村哲也『イースター島を行く』中央公論新社 2015年 157~158ページ。
*12:https://ancientdan.files.wordpress.com/2018/07/2-83-2018-03-10-15-05-40.jpg?w=1920
*13:https://steinkatze.files.wordpress.com/2010/08/p1110930.jpg
*14:後藤明『ハワイ・南太平洋の神話』中央公論社 1997年 77ページ。
*16:https://www.rakuten.ne.jp/gold/good-toy/img/meoto.jpg
*17:https://scontent-lga3-1.cdninstagram.com/vp/c6eef9d3e6db3ae13283971e445b5c9d/5D8F790E/t51.2885-15/e35/52034001_606313569795153_496966509177891620_n.jpg?_nc_ht=scontent-lga3-1.cdninstagram.com
*18:伊藤堅吉ほか『道祖神のふるさと』大和書房 1972年 58~67ページ。
*19:参考: 早野慎吾「宮崎県諸県域における田の神信仰」『宮崎大学教育文化学部紀要. 人文科学』26号 2012年 36ページ。
「綏靖型暴君伝説の展開」、公開中
「2017年以降の論文」に、「綏靖型暴君伝説の展開」というのを新たに追加しておいた。ちなみに「綏靖」は、「すいぜい」と読む。
「人喰い天皇を岩屋に閉じ込めて、片づけちゃいました」
という話がいくつかあって、そのルーツについて考えたものだ。いつも同じことを書いてる気がするが、興味のある人は(ない人も)読んでもらえると助かる。
ちょっと変わった伝説だが、もともとは火山の話だったらしい。
「火山の地下に怪物が閉じ込められていて、これが暴れると地震が起こる」
的な話とも、どこかでつながっているのだろう。「ヨハネの黙示録」からアーサー王伝説まで、いろいろと語れて満足だ。
新版・世界の七不思議 14 - みんな大好き、モアイ像
イースター島(ラパヌイ国立公園)については第2回でもとり上げたが、ごく簡単に紹介しただけだ。今回は特にモアイ(図1)について、もうちょっと掘り下げてみたいという気がする。
図1 モアイ*1
ただ何しろモアイと言えば、「石でできた謎」と言ってもいいくらい、いまでもわからないことが多い。まずは最低限、いまだいたいわかってること、わからないことを整理しておこう。いつになく長くなったから、今回は目次をつけてみた。
- 1. 目の穴を開けてあるモアイが完成品。
- 2. モアイのルーツは多分、「ティキ」の像。
- 3. モアイは墓標みたいなもの、なのか?
- 4. 顔はだんだん、長くなった。
- 5. モアイは全部、倒れていた。
- 6. 運び方はまだわからない。
1. 目の穴を開けてあるモアイが完成品。
図3 「アフ」に立つモアイ*3
モアイはラノ=ララクという火山(図2)のふもとで彫られ、村の近くまで運ばれて、台座に立てられるものだったらしい(図3)。ラノ=ララクのモアイ像の写真だけを見て、モアイは基本、顔だけの像だと思ってる人をたまに見かけるが、むろんそんなわけないのである。
図4 左: 目の穴があるモアイ/右: ないモアイ*4
モアイが立っている台座を、「アフ」という。アフ上のモアイには、ほとんどの場合目の穴があるが、ラノ=ララクのモアイにはない(図4)。アフに立てる前後の段階で、初めて穴が開けられたのだろう。
図5 モアイの目玉*5
図6 目を入れたモアイ(復元)*6
1978年、モアイの目玉(図5)が発見され、目の穴にはめられてたものだということがわかった。つまりどうやら図6が、完全体モアイということになるが、ぶっちゃけ目玉がない方がかっこいい気がする。
この目玉、ふだんははずされてたとも言われている*7。大事な儀式のときとかだけ、はめるものだったのかもしれない。全部のモアイにこういう立体の目玉があったわけじゃなく、顔料で目を描いたりもしてたらしい*8。
ちなみに一部のモアイには「プカオ」といって、赤い帽子みたいなものが乗せてある(図6)。これは15世紀以降の流行だそうで、古いモアイにはない。帽子じゃなくて、結い上げた髪とする説がいまは有力だ*9。
2. モアイのルーツは多分、「ティキ」の像。
図8 マルケサスのティキ*11
ニュージーランドには、「ティキ」と呼ばれる祖先像(図7。最初の人間を表してるそうだ)を造る風習がある。南太平洋の島々にも似たような祖先像があって(図8)、マルケサス諸島では「ティキ」、タヒチでは「ティイ」などと呼ばれている*12。形はそれぞれちょっとずつ違うが、名前からみて、ルーツは同じだろう。ニュージーランドを含め、太平洋の人々は主にマルケサスやソシエテ諸島(タヒチを含む)から広まったと考えられてるし*13、ティキ文化のルーツも多分、そのあたりだ。
図9 アフとティイ(ソシエテ)*14
図10 祭壇上のティキ(マルケサス)*15
特にソシエテ諸島では、祭壇は「アフ」と呼ばれており、イースター島と同じである。ライアテア島(ソシエテ諸島の1つ)では、アフの前にティイが立ててあり*16(図9)、立地はモアイにかなり近い*17。また、マルケサス諸島のヒバ=オア島では、「メアエ」という祭壇の上にティキがある(図10)。これもまた、アフの上にモアイを立てるというイースター島の流儀によく似ている*18。
大きさはだいぶ違うけど、モアイもティキの信仰から生まれたという見方が有力だ*19。となるとモアイもティキと同じく、遠い祖先の姿なんだろう。
図11 左: モアイ/右: ティキ*20
※ 耳に注目。
図12 モアイの手*21
ティキはしかし、モアイのモアイらしい特徴をいくつか欠いている。たとえばモアイは、耳が異様に長いが、ティキは違う(図11)。でも腹に両手を当ててるとこは、モアイとティキの共通点である。モアイにもよく見るとちゃんと手があって、やっぱり腹に当ててるのだ(図12)。
図13 腹に手を当てた石像*22
※ 左から、日本(飛鳥)/韓国(済州島)/インドネシア(スラウェシ島)/ボリビア(ティワナク遺跡)
図14 腕のない石像*23
※ 左は「ミロのヴィーナス」、右は「モツィアの若者」。
腹に手を当てた石像は結構どこにでもあって(図13)、別に珍しいもんではない(腕を体から離した石像は造りにくく、また壊れやすいから、こういうポーズが多くなるらしい。実際古い石像には図14のように、腕がとれてるものが多い)。が、そもそもアフの風習が、ソシエテやマルケサスから来たのなら、ティキもいっしょに入ってきただろう。モアイの直接のルーツはやはり、ティキ像にあるということでよさそうだ。
3. モアイは墓標みたいなもの、なのか?
この点が、実はまだいまいちわからない。かなり有望そうな説で、以下のような証言もある。
モアイ像は、島内にある各地域の首長を祀るための墓標として建造されたと考えられている。
モアイ像の近くからは首長と考えられる人物絵が刻まれた頭蓋骨が発掘されており、モアイ像が立つ「アフ」と呼ばれる土台も、タヒチの聖域マラエにある石垣「アフ」と同じ名前。
タヒチのアフは首長の墓としてつくられたものであることから、イースター島の方も同じ目的でつくられた可能性が高いという。
――本条達也氏(「イースター島のモアイ像」より)
モアイは未だに謎だと言われていますが、“モアイは墓標”だという説は間違いなさそうです。なぜそう言えるかというと、立っているモアイの下には必ず台座があるんですが、その台座の中から大量の人骨が見つかっているんですね。なので、台座は墓だったんじゃないかといわれています。そして、イースター島はハワイとニュージーランドを三角形に結ぶポリネシア圏の文化があるんですね。そのポリネシア圏の文化は“祭壇の中に墓を作ること”があって、イースター島でも墓標を立てたことがモアイの始まりだといわれています。
――野村哲也氏(「未だ謎に包まれているモアイ像」より)
本条氏や野村氏は考古学者ではないが、専門家に近い立場にある。だったらこれでほぼ決まりだろうとは思うのだが、1つ問題がある。「モアイ=墓標説」がメジャーなのは、調べた限りでは日本語サイトだけで、英語だとヒットしないのだ。
図15 アフの下の人骨*24
「アフ」とか「マラエ」とか呼ばれる太平洋諸島の祭壇について調べても、「聖域」だとは書いてあるが、墓だという話はほとんどない。タヒチのマラエからは人骨も出たが、これは生贄の骨と言われているようだ*25。イースター島のアフからも骨は出てくるが、写真(図15)を見る限り、ごろごろ無造作に置かれてて、有力者の墓らしくない(祭壇を後から墓として再利用したとみえなくもない)。
英語サイトなら信用して、日本語だったら信用しないとか、そういうことではない。ただ、モアイについて有力な仮説があったとして、英語より先に日本語で情報が流れる可能性は、低いんじゃないのという話だ。
そんなわけで、この仮説についてはいまのとこ、態度を保留しておきたい。
「すごくありそうなんだけど、全面的に賛成するには、ちょっとだけ不安」
という感じだ。
4. 顔はだんだん、長くなった。
図16 四角い顔のモアイ*26
第2回でも書いたけど、モアイはそんなに古いもんじゃない。だいたい1250年から1500年あたりまで造られてたと言われている*27。最初から例の極端な「モアイ顔」だったわけじゃなく、だんだん細長くなったらしい。実際、古いタイプ(多分)のモアイの顔は、四角くてなんだかモアイらしくない(図16)。
図17 トゥクトゥリ*28
モアイらしからぬモアイと言えば、「トゥクトゥリ」と呼ばれる非常に珍しいタイプもある(図17)。ノルウェーのトール=ヘイエルダール(図18。『コンチキ号漂流記』で有名)らが、1955年に発掘したものだ。普通のモアイと違って頭が丸っこく、ちゃんと脚もある(正座してる)。よく見ると、あごひげを生やしているらしい。
昔はこれ、モアイのプロトタイプと思われてたし、いまでもそう書いてあるサイトもある*30。でもいまは、どうやら一番新しいタイプ(下手したら、最後に造られたモアイ)だろうと考えられているそうだ*31。
ちょっと下世話な話だが、モアイのあの形(特に顎のライン)は、ぶっちゃけペニスを表してるという説もある。実際現地には、モアイは「われわれの体の下の方についているモアイ」を参考に造られたという言い伝えがあったりするそうだ*32。でもそれがほんとなら、モアイのプロトタイプとして、ペニスそのものを表した彫像もないとおかしいし、どうも眉唾という気がする。様式化されたモアイの姿がたまたまちょっとそれっぽかったから、後づけで生まれた物語なのではなかろうか。
5. モアイは全部、倒れていた。
図19 左: ロッヘフェーン/右: クック*33
イースター島を訪れたヨーロッパ人は、1722年のヤーコプ=ロッヘフェーン(オランダ人)が最初である。ロッヘフェーンらは、アフに立つモアイを目撃しているが、この時点では、モアイが倒れてたという話はない。その後1774年になると、イギリスのジェームズ=クックが、多くのモアイが倒されていると報告した。1868年、やはりイギリスのリントン=パーマーが訪れたときは、アフ上のモアイは1つ残らず倒れていたという*34。モアイの多くはいまも倒れたままであり*35、アフに立ってるのは、20世紀以降に復元されたものだ。
1722年から146年の間に、すべてのモアイが倒れてしまったのは、部族間の戦争によると言われてきた。実際島民たちの伝説には、激しい戦争と、「フリ・モアイ(モアイ倒し)」の場面があるそうだ。モアイは村の守護神なので、敵のモアイを倒すことで、呪術的に優位に立てるということらしい。
図20 マタア*36
でもこの話、ちょっと怪しいという見方もある*37。イースター島の発掘調査では、戦争の跡は見つからないらしい。武器になりそうなのは「マタア」という石器(図20)くらいだが、殺傷力はきわめて低いという(参考: イースター島、人殺しの武器を作らなかったと新説)。モアイを造るほどの技術があるんだし、戦闘が激しくなってくれば、もっとそれ向きの武器をいくらでも造り出せそうなものだ。
伝説も、どこまで信用できるのかわからないとも言われている。ピーク時には、3000人はいたと言われるイースター島民だが*38、1872年までに、111人に激減したからだ(主な原因は、ヨーロッパ人による奴隷狩りや、彼らがもちこんだ天然痘やら結核やら)*39。島の正確な歴史を知る者は、このとき死に絶えた可能性もある。
そもそもモアイについては、「地震で倒れた」と言ってる島民もいたそうで*40、人の手で倒されたものがどれくらいあるかはよくわからない。モアイはもともと不安定な形ではあるし、台座のメンテナンスを怠れば、倒れやすいのはたしかだろう。そんなわけで、アフ上のモアイがすべて、一度倒れたことは事実だが、その理由にはまだ謎が多い。
6. 運び方はまだわからない。
モアイはラノ=ララクで造られて、遠いところでは、20キロくらい離れたところまで運ばれてる*41。どうやって運んだかも謎の1つだが、どうも立たせた状態で運ばれたらしいというところまではわかっている。道の半ばで倒れてるモアイ(運ぶ途中で放棄された?)の状態からすると、寝かせて運ぶものではなかったらしいのだ(参考: イースター島のモアイ像)。
図21 モアイを歩かせる実験*42
立たせてどうやって運ぶかと言えば、図21みたく、左右から引っぱって「歩かせる」やり方が、かなり有力とされている。でもこれだと、モアイの底が摩擦で傷ついてしまうから*43、底の部分に何かかぶせていたのかもしれない。長井鉄也氏が考案したように*44、木の枠を使うやり方(図22)も、摩擦を減らすにはよさそうだ*45。
図22 長井モデル*46
※ 下り坂だと、自分の重さでトコトコ歩き出す。
ぶっちゃけ私は、「どうやって運んだのか」とか、「どうやって立てたのか」といった技術方面にあまり興味がなくて、自分で考える気力はない。
*1:http://1.bp.blogspot.com/-7o0-hqIObRs/USWfgA4ALcI/AAAAAAAAAD4/smNPxNOSECc/s1600/CHL_EasterIsland_2Moai_.jpeg
*2:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a2/Rano-Raraku-Panorama-2013.jpg/1200px-Rano-Raraku-Panorama-2013.jpg
*3:https://steinkatze.files.wordpress.com/2010/08/p1110930.jpg
*4:左: http://www.fondiesicav.it/wp-content/uploads/bfi_thumb/shutterstock_240290710-mpqvffeeuafsu09se3i0kw0t4rnlelhptftp47v2su.jpg/右: http://parkerlab.bio.uci.edu/pictures/photography%20pictures/rano%20raraku_2%20brothers.jpg
*5:http://www.astrosurf.com/lecleire/2010/100710_moai_eye.jpg
*6:https://classconnection.s3.amazonaws.com/250/flashcards/1298250/jpeg/24-145227F178F7B145B05.jpeg
*7:Eric Kjellgren and others, Splendid Isolation, Metropolitan Museum of Art, 2001, p. 39.
*8:小松左京監修『イースター島の謎』日本テレビ放送網株式会社 1979年 54ページ。
*10:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8e/Tiki1905.jpg
*11:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/81/Tiki_Marquesas_Louvre_MH_87-50-1.jpg
*13:ポリネシア - Wikipedia。ニュージーランドなら、オーストラリアの方が近いのに意外な気がするが。
*14:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/Taputapuatea_marae_Raiatea.jpg
*15:http://p1.storage.canalblog.com/14/79/883485/86784667_o.jpg
*16:特集『タプタプアテア』│TBSテレビ:世界遺産/タプタプアテアのマラエ - Wikipedia
*17:どうもこのティイには脚がないようで、その点もモアイ風ではある。
*18:真ん中のティキ(「タカイイTakaii」と呼ばれる)は2.67mあるそうで、モアイほどではないけど、かなりでかい。
*19:ASIOS『謎解き 超常現象(4)』彩図社 2015年 249~250ページと、Mike Carson, Archaeology of Pacific Oceania, Routledge, 2018.
*20:左: http://digital.library.upenn.edu/women/routledge/easter/figure-58.jpg/右: https://cdn.tahitiheritage.pf/wp-content/uploads/2015/02/hiva-oa-hanapaoa-tiki-moeone-669x434.jpg
*21:https://www.bibliotecapleyades.net/arqueologia/eastern_island/images/moai2.jpg
*22:左から、https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/17/61/03/src_17610353.jpg?1281578589/http://pds14.egloos.com/pds/200901/22/12/a0107712_49783a030df2e.jpg/https://i1.wp.com/www.roamindonesia.com/wp-content/uploads/2016/05/indonesia-sulawesi-palindo-megalith.jpg/https://www.lai.fu-berlin.de/e-learning/projekte/caminos/das_alte_amerika/bildergalerien/tiwanaku/tiwanaku_monolith.jpg?width=500
*23:左: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3d/Aphrodite_of_Milos.jpg/右: https://nabanassar.files.wordpress.com/2016/06/cropped-20160529_103041.jpg
*24:小松左京監修『イースター島の謎』日本テレビ放送網株式会社 1979年 12ページ。
*26:https://niesprzedawajcieswychmarzen.files.wordpress.com/2010/12/12-ahu-ature-huki-pierwsze-moai-na-wyspie-podnisione-przez-thora-heyerdahla-w-1958-roku.jpg
*28:左: https://travelshopgirl.com/wp-content/uploads/2018/02/image_2018-02-11-231041-0000_1-633x1024.jpg/右: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Moai_Easter_Island_geod0095.jpg
*29:https://vadebarcos.files.wordpress.com/2014/10/thor-heyerdahl.jpg
*30:イースター島のモアイ像など。
*31:Rano Raraku - Wikipediaと、Jan J. Boersema, The Survival of Easter Island, Cambridge University Press, 2015, p. 100.
*32:後藤明『ハワイ・南太平洋の神話』中央公論社 1997年 76ページ。小松左京監修『イースター島の謎』日本テレビ放送網株式会社 1979年 51~52ページも参照。
*33:左: https://whewellsghost.files.wordpress.com/2015/09/a-louis_antoine_de_bougainville-218x300.jpg?w=640/右: https://i.ytimg.com/vi/VcRffb0CuFk/maxresdefault.jpg
*34:モアイ - Wikipediaと、Peter Mason, The Colossal, Reaktion, 2013, p. 94.
*35:ラノ=ララクの(半分埋まってる)モアイ像は、まだ運び出す前だから別。
*36:https://www.heritagedaily.com/wp-content/uploads/2016/02/mata.jpg
*37:後藤明「モアイの『危機語り』」(『南山大学人類学研究所論集』3号 2016年)。ここで読める。
*38:後藤明「モアイの『危機語り』」(『南山大学人類学研究所論集』3号 2016年)の15枚目(35ページ)。
*42:http://www.pleasuretime.it/wp-content/uploads/2016/10/rapa_nui-1.jpg
*43:ピーター=ジェイムズほか『古代文明の謎はどこまで解けたか(1)』太田出版 2002年 350ページ。
*45:ただしこっちでも、特に坂を上るときは、底部がかなりこすれると思う。
新版・世界の七不思議 13 - 巨石「文化」か、「文明」か
「世界の七不思議」の選定は前回で終わってるから、ここからは補足の話である。今回は、ヨーロッパ(など)の巨石文化が、ときどき「巨石文明」とも呼ばれる件について。
このブログでは、ストーンヘンジ(図1。第2回参照)などのヨーロッパの巨石記念物(これを生み出した母胎)について、「巨石文化」という呼び方をしてきた。でも1993年4月10日の「世界ふしぎ発見」は、「ヨーロッパ巨石文明の謎」と題している。日本テレビも1981年、『巨石文明の謎』という本を出してるし、特にTVでは、「文化」より「文明」という呼び方を好む傾向があるようだ。
「文化も文明も似たようなもんでしょ、どっちでもいいじゃん」
などと思う人もいるかもしれないが、実はこの2つはかなり明確に違う。で、ヨーロッパの巨石記念物などの場合は「文化」が正しくて、「文明」は(厳密に言うと)間違いだ。
そもそも「文化」とは何かと言えば、
「人間の行動様式・生活様式のすべて(生理現象を除く)」
くらいに考えておけば間違いない。たとえばしゃっくりは、それだけだとただの生理現象だから、文化じゃない。でも「この現象を何と呼ぶか」とか、「しゃっくりを止めたいとき、どうするか」といった話になると、これはもう文化そのものだ。つまり人間のいるところには、必ず文化があると思っていい。人間社会と一切関わらず、山奥で自給自足の暮らしをしていても、やっぱり服や住居をつくったり、食べ物を調理したりはするだろう。これももちろん文化であり、人間が文化をまったく営まず、生きていくことはまずできない*2。
一方「文明」はと言うと、これは文化とくらべたら、ず~っとせまい概念だ。簡単に言えば、「都市」を築くようになって初めて「文明」と呼ばれる。どんなにでかくて人口の多い集落でも、それが「漁村」や「農村」ならまだ「文明」ではない。
じゃあ都市ってなんなのよ、という話だが、これもごく大雑把に言えば、
「人口の大半が、『第一次産業』に従事してない集落」
といったところである。第一次産業と言ったら「農林水産業」だが(図2)、この場合は特に、食糧を生産する仕事――農耕・牧畜や狩猟、漁撈などが重要だ*4(パン屋さんや缶詰工場も食糧をつくってはいるが、第二次産業だから入らない)。「農家」でも「狩人」でも「漁師」でもない人々――為政者や神官、職人、商人などが人口の大半を占めれば「都市」であり、都市を営むのが「文明」だ。
図3 シュメール美術*5
※ シュメールの有名な王・グデアの像。
ちなみに世界最古の都市文明は、いまのとこメソポタミア文明*6で、だいたい紀元前4000年ごろ始まったらしい*7。人類史上初の「文明人」であるシュメール族(図3)は、系統不明の謎の民族と言われている*8。そのためトンデモ本では、ちょいちょい宇宙人にされて気の毒だ。
図4 ハジャール=イム神殿(マルタ島)*9
※ 紀元前3600~3200年ごろの遺跡だから*10、メソポタミア文明と同じくらい古い。
ヨーロッパでも、たとえばマルタ島の巨石神殿(図4。第4回)などは、古代文明の遺跡にさほど引けをとらないように見える。日干しレンガでできたメソポタミアの建物(図5)より、むしろこっちのが立派でしょ、と思う人だっているだろう。でもマルタ島からこのころの「都市」の遺跡は出てないから、これはやっぱり巨石「文化」であって、まだ「文明」ではないのである。
ついでに有名な青森の三内丸山遺跡(図6)も、「縄文の都市」などと呼ばれることがある。でもこれは、しょせんウケ狙いのキャッチフレーズだ。三内丸山の住民たちは、ほとんどが木の実の採集や狩猟・漁撈で暮らしてただろうし(農耕も少しはやっただろう)、あれはどうみても都市ではない。
図7 オルドワン石器*13
名前のついている文化としては、「オルドワン石器文化」(図7)がいまのところ一番古く、約260万年前までさかのぼる*14。まだ現生人類(ホモ=サピエンス=サピエンス)が生まれる前であり、人類は原人、または猿人の段階で、文化と呼べるものをすでにもっていた。一方文明の歴史は、せいぜい6000年前くらいまでしかさかのぼれない(文化の歴史とくらべたら、400分の1以下)。文化と文明は似てるようで、全然違うものなのである。
*1:https://cdn.theculturetrip.com/wp-content/uploads/2016/04/stonehenge-fotografieallerei-pixabay.jpg
*2:動物にも文化的行動(猿のイモ洗いなど)はある。
*3:https://employment.en-japan.com/tenshoku-daijiten/wp-content/uploads/past_image/10526/secondary_industry-620x320.jpg
*4:林業も第一次産業だが、土地により、ほとんど行われない場合もある。
*5:https://mythologica.fr/mesopotamie/pic/gudea.jpg
*9:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4f/Hagar_Qim_-_Chris_Brown.jpg
*11:http://66.media.tumblr.com/35e691d956f3ce293de13a6c8c317a44/tumblr_mg6m69SoyI1s2y7feo1_1280.jpg
*12:http://www.geocities.jp/tadoru_ono/img0151.jpg
*13:https://i.pinimg.com/736x/0b/0c/f5/0b0cf5dc9601f59b7bdb86b34de081e6.jpg